・・・物陰の電燈に写し出されている土塀、暗と一つになっているその陰影。観念もまたそこで立体的な形をとっていた。 喬は彼の心の風景をそこに指呼することができる、と思った。 二 どうして喬がそんなに夜更けて窓に起きているか・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。 時どき私はそんな路を歩・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・支那家屋の土塀のかげへ豚を置いた。「おい、浜田、どうしたんだい?」 何かあったと気づいた大西は、宿舎に這入ると、見張台からおりている浜田にたずねた。「敏捷な支那人だ! いつのまにか宿舎へ××を×いて行ってるんだ。」「どんな×・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・破れた土塀と、その朽ちた柱と、桑畠に礎だけしか残っていないところもある。荒廃した屋敷跡の間から、向うの方に小諸町の一部が望まれた。「浅間が焼けてますよ」 と先生は上州の空の方へ靡いた煙を高瀬に指して見せた。見覚えのある浅間一帯の山脈・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・まちを歩きながら、みちみちの土塀や板塀を殴った。居酒屋の卓を殴った。家の炉縁を殴った。この修行に一年を費やした。煙草盆がばらばらにこわれ土塀や板塀に無数の大小の穴があき、居酒屋の卓に罅ができ、家の炉縁がハイカラなくらいでこぼこになったころ、・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・縁側に出て見ると小庭を囲う低い土塀を越して一面の青田が見える。雨は煙のようで、遠くもない八幡の森や衣笠山もぼんやりにじんだ墨絵の中に、薄く萌黄をぼかした稲田には、草取る人の簑笠が黄色い点を打っている。ゆるい調子の、眠そうな草取り歌が聞こえる・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・高い土塀と深い植込とに電車の響も自ずと遠い嵐のように軟げられてしまうこの家の茶室に、自分は折曲げて坐る足の痛さをも厭わず、幾度か湯のたぎる茶釜の調を聞きながら礼儀のない現代に対する反感を休めさせた。 建込んだ表通りの人家に遮ぎられて、す・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・家康公の母君の墓もあれば、何とやらいう名高い上人の墓もある……と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた……それらの名高い尊い墳墓も今は荒れるがままに荒れ果て、土塀の崩れた土から生えた灌木や芒の茂りまたは倒れた石の門に這いまつわる野蔦の・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 土塀の続いている屋敷町を西へ下って、だらだら坂を降り尽くすと、大きな銀杏がある。この銀杏を目標に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。片側は田圃で、片側は熊笹ばかりの中を鳥居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の木立になる。それ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・それは本校のその建物の真裏で、となりの聖堂の土塀に近いところに、一つづきの小高い樫の茂った丘があった。一年生として入学した年の夏、その丘の下いっぱいが色とりどりの罌粟の花盛りで、美しさに恍惚としたことがあった。それ以来、そこは私をそっと誘い・・・ 宮本百合子 「青春」
出典:青空文庫