・・・ 曖昧に断りながら、ばつのわるい顔をもて余して、ふと女の顔を見ると、女は変に塩垂れて、にわかに皺がふえたような表情だった故、私はますます弱点を押さえられた男の位置に坐ってしまった。莫迦莫迦しいことだが、弁解しても始まらぬと、思った。男の・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・そして忽ち今までの嬉しげだった顔が、急に悄げ垂れた、苦いような悲しげな顔になって、絶望的な太息を漏らしたのであった。 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レッテルの貼られた後ろの方に、・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ある家の裏には芭蕉の葉が垂れている。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好に刈られた松も見える。みな黝んだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。 遠くに赤いポストが見える。 乳母車なんとかと白くペンキで書い・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・二郎はいたく酔い、椅子の背に腕を掛けて夢現の境にありしが、急に頭をあげて、さなりさなりと言い、再び眼を閉じ頭を垂れたり。 もし君が言わるるごとくば世には報酬なくして人の愛を盗みおおせし男女はなはだ多しと、十蔵はいきまきぬ。 われ、な・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・……霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士も、かくやと思ひ遣る。さま/″\思ひつづけ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・頭を垂れ、沈んで、元気がなかった。それは、憲兵隊の営倉に入れられていた鮮人だった。「や、来た、来た。」 丘の病院から、看護卒が四五人、営内靴で馳せ下って来た。 老人は、脚が、かなわなくなったものゝのように歩みが遅かった。左右から・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 源三は首を垂れて聞いていたが、「あの時は夢中になってしまったのだもの、そしてあの時おまえの母様にいろんな事を云って聞かされたから、それからは無暗の事なんかしようとは思ってやしないのだヨ。だけれどもネ、」と云いさして云い澱んでし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・だが、後から見ると、頭を深く深く、垂れていた。 最後は大川だった。彼は何べんうながされても、なかなか云わなかったが、自分の家があまり困っているので、外へ出たら運動をやめて働いて行きたいと云った。大川は港湾労働者で、仲仕をしていた。おかみ・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・彼は都会の人の知らない蜂の子のようなものを好んで食ったばかりでなく、田圃側に葉を垂れている「すいこぎ」、虎杖、それから「すい葉」という木の葉で食べられるのを生でムシャムシャ食ったことを思出した。 高瀬の胸に眠っていた少年時代の記憶はそれ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・白楊は、垂れかかっている白雲の方へ、長く黒く伸びている。その道を河に沿うて、河の方へ向いて七人の男がゆっくり歩いている。男等の位置と白楊の位置とが変るので、その男等が歩いているという事がやっと知れるのである。七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫