・・・ 正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと顕われると、ひらりと舞下り、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点れたように灯影が映る時、八十年にも近かろう・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ つい事の起ります少し前でございました、沢井様の裏庭に夕顔の花が咲いた時分だと申しますから、まだ浴衣を着ておりますほどのこと。 急ぎの仕立物がございましたかして、お米が裏庭に向きました部屋で針仕事をしていたのでございます。 まだ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・がらりと気を替えて、こうべ肉のすき焼、ばた焼、お望み次第に客を呼んで、抱一上人の夕顔を石燈籠の灯でほの見せる数寄屋づくりも、七賢人の本床に立った、松林の大広間も、そのままで、びんちょうの火を堆く、ひれの膏をにる。 この梅水のお誓は、内の・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・烏瓜、夕顔などは分けても知己だろうのに、はじめて咲いた月見草の黄色な花が可恐いらしい……可哀相だから植替えようかと、言ううちに、四日めの夕暮頃から、漸っと出て来た。何、一度味をしめると飛ついて露も吸いかねぬ。 まだある。土手三番町の事を・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・青い夕顔に、真魚板に、庖丁と、こうあれに渡したと思わっせれ。ところが、あなた、あれはもう口をフウフウ言わせて、薄く切って見たり、厚く切って見たり。この夕顔はおよそ何分ぐらいに切ったらいいか、そういうことに成るとまるであれには勘考がつかんぞな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・わが名は、なでしことやら、夕顔とやら、あざみとやら。追伸、この手紙に、僕は、言い足りない、或は言い過ぎた、ことの自己嫌悪を感じ、『ダス・ゲマイネ』のうちの言葉、『しどろもどろの看板』を感じる。太宰さん、これは、だめです。だいいち私に、異性の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・大きな烏瓜か夕顔の花とでも思うのかもしれない。たまたま来客でもあって応接していると、肝心な話の途中でもなんでも一向会釈なしにいきなり飛込んで来て直ちに忙わしく旋回運動を始めるのであるが、時には失礼にも来客の頭に顔に衝突し、そうしてせっかく接・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・大きなからすうりか夕顔の花とでも思うのかもしれない。たまたま来客でもあって応接していると、肝心な話の途中でもなんでもいっこう会釈なしにいきなり飛び込んで来て直ちにせわしく旋回運動を始めるのであるが、時には失礼にも来客の頭に顔に衝突し、そうし・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・前に夕顔棚ありて下に酒酌む自転車乗りの一隊、見るから殺風景なり。その前は一面の秋草原。芒の蓬々たるあれば萩の道に溢れんとする、さては芙蓉の白き紅なる、紫苑、女郎花、藤袴、釣鐘花、虎の尾、鶏頭、鳳仙花、水引の花さま/″\に咲き乱れて、径その間・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・涼しさを知らない大陸のいろいろな思想が、一時ははやっても、一世紀たたないうちに同化されて同じ夕顔棚の下涼みをするようになりはしないかという気がする。いかに交通が便利になって、東京ロンドン間を一昼夜に往復できるようになっても、日本の国土を気候・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
出典:青空文庫