・・・林とは云え、枝を交えて高き日を遮ぎる一抱え二抱えの大木はない。木は一坪に一本位の割でその大さも径六七寸位のもののみであろう。不思議にもそれが皆同じ樹である。枝が幹の根を去る六尺位の所から上を向いて、しなやかな線を描いて生えている。その枝が聚・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・かえってそのほとりの大木に栗の花のような花の咲いて居たのがはや夏めいて居た。車屋に沿うて曲って、美術床屋に沿うて曲ると、菓子屋、おもちゃ屋、八百屋、鰻屋、古道具屋、皆変りはない。去年穴のあいた机をこしらえさせた下手な指物師の店もある。例の爺・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ 山姥の力餅売る薄かななど戯れつつ力餅の力を仮りて上ること一里余杉樅の大木道を夾み元箱根の一村目の下に見えて秋さびたるけしき仙源に入りたるが如し。 紅葉する木立もなしに山深し 千里の山嶺を攀じ幾片の白雲を踏み砕きて上・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
このかいわいは昼も夜もわりあいに静かなところである。北窓から眺めると欅の大木が一群れ秋空に色づきかかっていて、おりおり郊外電車の音がそっちの方から聞えてくる。鉄道線路も近いので、ボッボッボッボと次第に速く遠く消え去って行く・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・世界ファシズムがふたたび擡頭していること、日本の屈従的な政府は、自身の反歴史的な権力維持のためには、人民生活を犠牲にして大木のかげに依存していることなどについて明瞭に理解してきた。一九四八年のなか頃から、国内にたかまってきている民族自立と世・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・弟どもも一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。 政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。一旦・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・幸なる事には異なる伽羅の大木渡来いたしおり候。然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望を掛け互にせり合い、次第に値段をつけ上げ候。 その時・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・勿論何のことか判然聞取なかったんですが、ある時茜さす夕日の光線が樅の木を大きな篝火にして、それから枝を通して薄暗い松の大木にもたれていらっしゃる奥さまのまわりを眩く輝かさせた残りで、お着衣の辺を、狂い廻り、ついでに落葉を一と燃させて行頃何か・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・少しく立派な街ならば街路樹は風土相応の大木となっている。また大木とならなければ美しい街になることはできぬのである。街路から電線を取り除くことが不可能であるならば、電線は街路樹の枝の下に来べきものであって、梢を抑えるべきものではない。従って街・・・ 和辻哲郎 「城」
・・・それに比べると、欅の葉は、欅が大木であるに似合わず小さい優しい形で、春芽をふくにも他の落葉樹よりあとから烟るような緑の色で現われて来、秋は他の落葉樹よりも先にあっさりと黄ばんだ葉を落としてしまう。この対照は、常緑樹と落葉樹というにとどまらず・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫