・・・しかし必ずしもそれを食うのではなく、そのままに打ちすてておいてあるのを、玉が失敬して片をつける事もあるようだし、また人間のわれわれが糸で縛って交番へ届ける事もあった。生存に直接緊要な本能の表現が、猫の場合ですらもうすでに明白な分化を遂げて、・・・ 寺田寅彦 「子猫」
昨日は失敬。こう続けざまに芝居を見るのは私の生涯において未曾有の珍象ですが、私が、私に固有な因循極まる在来の軌道をぐれ出して、ちょっとでも陽気な御交際をするのは全くあなたのせいですよ。それにも飽き足らず、この上相撲へ連れて・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・よりほかの語が出て来なかったのである、正直なる余は苟且にも豪傑など云う、一種の曲者と間違らるるを恐れて、ここにゆっくり弁解しておくなり、万一余を豪傑だなどと買被って失敬な挙動あるにおいては七生まで祟るかも知れない、 忘月忘日 人間万事漱・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風の中を覗くと、平田は帯を締め了ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。「失敬した、失敬した。さア出かけよう」「まアいいさ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・我輩は気の毒ながら失敬ながら記者を評して陰陽迷信の愚論者なりと言わんと欲する者なり。既に立論の根本を誤るときは其論及する所に価なきも亦知る可し。女は愚にして目前の利害も知らず、人の己れを誹る可きを弁えず、我家人の禍となる可き事を知らず、漫に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・は終身の弱点となり、もはや諸々の私徳に注意するの穎敏を失い、あたかも精神の痲痺を催してまた私権を衛るの気力もなく、漫然世と推移りて、道理上よりいえば人事の末とも名づくべき政事政談に熱するが如き、我輩は失敬ながら本を知らずして末に走るの人と評・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・石塔の石を突きころがしたナ。失敬千万ナ。こんな奴が居るから幽霊に出たくなるのだ。ちょっと幽霊に出てあいつをおどかしてやろうか。しかし近頃は慾の深い奴が多いから、幽霊が居るなら一つふんじばって浅草公園第六区に出してやろうなんていうので幽霊捕縛・・・ 正岡子規 「墓」
・・・それは黄色でね、もくもくしてね、失敬ですが、ホモイさん、あなたなんかまだ見たこともないやつですぜ。それから、昨日むぐらに罰をかけるとおっしゃったそうですね。あいつは元来横着だから、川の中へでも追いこんでやりましょう」と言いました。 ホモ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・一人の学生が巡査の帽子を失敬して一目散に走り出した。その代りに三角帽をのせられた本人。いそいで追っかけている後でうまく逃げろ! と燕尾服のズボンに片手を突こみ片手には手袋を振って声援しているもう一人の学生。更に一人は瓦斯街燈にからみついて他・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・実は反対に記者のために頗る気の毒な、失敬な事を考えた。情調のある作品として挙げてある例を見て、一層失敬な事を考えた。 木村の蹙めた顔はすぐに晴々としてしまった。そして一人者のなんでも整頓する癖で、新聞を丁寧に畳んで、居間の縁側の隅に出し・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫