・・・ こんどの奥さん、気がきかないのね。夏の外出には、ハンケチ三枚と、扇子、あたしは、いちどだってそれを忘れたことがない。 ――神聖な家庭に、けちをつけちゃ困るね。不愉快だ。 ――おそれいります。ほら、ハンケチ、あげるわよ。 ――あ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らしてくれたものと思われる。その頃自分は大学二年生であったが、その少し前・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・ 尤も奥さんの綾子さんの方でも、随分気はつけていた。遺書のようなものを、肌を離さずに持っていたのを、どうかした拍子に、ちらと見てからと云うもの、少しも気を許さない。どこへ出るにも馬丁をつけてやることにしていたんだ。夜分なども、碌々眠らな・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ それからだんだん、ふれ声も平気で言えるようになり、天秤棒の重みで一度は赤く皮のむけた肩も、いつかタコみたいになって痛くなくなり、いつもこんにゃくを買ってくれる家の奥さんや女中さんとも顔馴染になったりしていったが、たった一つだけが、いつ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・述作の際非常に頭を使う結果として、しまいには天を仰いで昏倒多時にわたる事があるので、奥さんが大変心配したという話も聞いた。そればかりではない、先生は単にこの著作を完成するために、日本語と漢字の研究まで積まれたのである。山県君は先生の技倆を疑・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・第二にはジネストの奥さんの手紙が表面には法律上と処世上との顧問を自分に託するようであって、その背後に別に何物かが潜んでいるように感じたからである。無論尋常の密会を求める色文では無い。しかしマドレエヌは現在の煩悶を遁れて、過去の記念の甘みが味・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・「一年に一度でも二度でも今日は上れませんと云え。奥さんだって行く気はないんだ」 扉の把手を握ったまま、れんはあわてて二三度腰をかがめた。「はい。はいはい」 扉をしめながら、彼女は更に一つをつけ加えた。「はい。――」 ・・・ 宮本百合子 「或る日」
朝小間使の雪が火鉢に火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿の部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。「おや。さようでございましたか。先っき瓦斯煖炉に火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・夜なかが過ぎて一時になりましたころ、わたくしは雑談をいたしているのが厭になって来ましたので、わたくしどもを呼んで下すった奥さんに暇乞をいたしましたの。その時あなたはその奥さんの側に立っていらっしゃって、わたくしの顔をじっと見ていらっしゃいま・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・「奥さん。あなたもやはりあちらへ、ニッツアへ御旅行ですか。」「いいえ。わたくしは国へ帰りますの。」「まだ三月ではありませんか。独逸はまだひどく寒いのです。今時分お帰りなさるようでは、あなたは御保養にいらっしゃったのではございませ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫