・・・ 世の中には行詰った生活とか生の悶えとか言うヴォヤビュラリーをのみ陳列して生活の苦痛を叫んでるものは多いが、その大多数は自己一身に対しては満足して蝸殻の小天地に安息しておる。懐疑といい疑惑というもその議論は総てドグマの城壁を固めて而して・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・店や料理店の軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の目まぐるしい猥雑さに魂の拠り所を失ったこれ等の若いインテリ達が、たとえ一時的にしろ、ここを魂の安息所として何もかも忘れて、舌の焼けそう・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・しかしちょっと気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽やかな安息に変化してしまう。 深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった――今は巨大・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・鮮やかなる時、お花に伴われてかの小川の辺など散歩し、お花が声低く節哀れに唱うを聞けばその沈みはてし心かすかに躍りて、その昔、失敗しながらも煩悶しながらもある仕事を企ててそれに力を尽くした日の方が、今の安息無事よりも願わしいように感じた。・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・しかし汽車に乗って丸亀や坂出の方へ行き一日歩きくたぶれて夕方汽船で小豆島へ帰ってくると、やっぱり安息はここにあるという気がしてくる。四季その折々の風物の移り変りと、村の年中行事を、その時々にたのしめるようになったのは、私には、まだ、この二三・・・ 黒島伝治 「四季とその折々」
・・・まアこれで安息所を得たと思った。 満足とともに新しい不安が頭を擡げてきた。倦怠、疲労、絶望に近い感情が鉛のごとく重苦しく全身を圧した。思い出が皆片々で、電光のように早いかと思うと牛の喘歩のように遅い。間断なしに胸が騒ぐ。 重い、けだ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・驚いて川に飛び込む鰐は、その飛び込む前に安息している川岸の石原と茂みによって一段の腥気を添える。これがないくらいならわれわれは動物園で満足してよいわけである。それだからわれわれはもう少し充分にこれらの背景と環境とを見せてもらいたいのであるが・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・もう少し心とからだの安息を与えて、思いのままに彼の欲する仕事に没頭させた方が、かえって本当にこの稀有な偉人を尊重する所以でもあり、同時に世界人類の真の利益を図る所以にもなりはしまいか。これも考えものである。 今度のノーベル・プライズのた・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・重要な官衙や公共設備のビルディングを地上百尺の代わりに地下百尺あるいは二百尺に築造し、地上は全部公園と安息所にしてしまう。これならば大地震があっても大丈夫であり、敵軍の空襲を受けても平気でいられるようにすることができるからである。この私の夢・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・昔より大隠のかくれる町中の裏通り、堀割に沿う日かげの妾宅は即ちこの目的のために作られた彼が心の安息所であったのだ。二 妾宅は上り框の二畳を入れて僅か四間ほどしかない古びた借家であるが、拭込んだ表の格子戸と家内の障子と唐紙とは・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫