・・・が、そのために登勢はかえって屈託がなくなったようで、生れつきの眇眼もいつかなおってみると、思いつめたように見えていた表情もしぜん消えてえくぼの深さが目だち、やがて十八の歳に伏見へ嫁いだ時の登勢は、鼻の上の白粉がいつもはげているのが可愛い、汗・・・ 織田作之助 「螢」
・・・喬は満足に物が言えず、小婢の降りて行ったあとで、そんなすぐに手の裏返したようになれるかい、と思うのだった。 女はなかなか来なかった。喬は屈託した気持で、思いついたまま、勝手を知ったこの家の火の見へ上って行こうと思った。 朽ちかけた梯・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・「御前製作ということでさえ無ければ、少しも屈托は有りませんがナア。同じ火の芸術の人で陶工の愚斎は、自分の作品を窯から取出す、火のための出来損じがもとより出来る、それは一々取っては抛げ、取っては抛げ、大地へたたきつけて微塵にしたと聞いてい・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 双方とも暫時言葉は無かった。屈託無げにはしているが福々爺の方は法体同様の大きな艶々した前兀頭の中で何か考えているのだろう、にこやかには繕っているが、其眼はジッと女の下げている頭を射透すように見守っている。女は自分の申出たことに何の手答・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 兄さんはそう言って屈託なく笑って帰りましたけれど、私は勝手口に立ったままぼんやり見送り、それからお部屋へ引返して、母の物問いたげな顔にも気づかぬふりして、静かに坐り、縫いかけの袖を二針三針すすめました。また、そっと立って、廊下へ出て小・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・麻服の上着なしで、五分刈り頭にひげのない丸顔にはおよそ屈託や気取りの影といったものがない。リットルのビールを二杯注文して第一杯はただひと息、第二杯は三口か四口に飲んでしまって、それからお皿に山盛りのチキンライスか何かをペロペロと食ってしまっ・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・逼っておらん。屈托気が少ない。したがって読んで暢び暢びした気がする。全く写生文家の態度が人事を写し行く際に全精神を奪われてしまわぬからである。 写生文家は自己の精神の幾分を割いて人事を視る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・という思いを、屈托した不平の呟きとせずこの際、それを条理をもって整理して見てはどうだろう。それが必然だからこそ、自分たちでやって行くに適当した社会的な方法を見出さなければならないという一歩の前進がそんなに不可能なことであろうか。 食物の・・・ 宮本百合子 「現実に立って」
・・・さすがにふっとホロリともして「もしかこの世がさながらの天国であって、生活に誰も屈託がないならばこの板みたいな顔の女たちは運転手の、会社員の、商人の、みんな女房で」世帯をもっているだろうのにと察しもするが、それは忽ち、そうなら「とても昼のうち・・・ 宮本百合子 「昨今の話題を」
・・・ 赤衛兵は、日にやけた屈托のない若い顔で、広場を眺め立っている。冬宮は今博物館となっている。 日本女はゆっくりその広場を横切り、十月二十五日通りへ出た。家並の揃った、展望のきく間色の明るい街を、電車は額に照明鏡を立てたドクトルみたい・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
出典:青空文庫