・・・しかし源三は我が秘密はあくまでも秘密として保って、お浪との会話をいい程のところに遮り、余り帰宅が遅くなってはまた叱られるからという口実のもとに、酒店へと急いで酒を買い、なお村の尽頭まで連れ立って来たお浪に別れて我が村へと飛ぶがごとくに走り帰・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・帰る途中で、おでんやなどに引かかって、深夜の帰宅になる事もある。 仕事部屋。 しかし、その部屋は、女のひとの部屋なのである。その若い女のひとが、朝早く日本橋の或る銀行に出勤する。そのあとに私が行って、そうして四、五時間そこで仕事をし・・・ 太宰治 「朝」
一 あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・』と小声で言い、私は、あとで圭吾から二日前に既に帰っていたという事を聞かなかったら、この嫁が圭吾の帰宅をその時までまったく知らなかったのだと永遠に信じていたでしょう、きっと、そうです。嫁は、もうそれっきり何も言わず、時々うすら笑いさえ顔に浮・・・ 太宰治 「嘘」
・・・私は、おもむろに、かの同行の書生に向い、この山椒魚の有難さを説いて聞かせようと思ったとたんに、かの書生は突如狂人の如く笑い出しましたので、私は実に不愉快になり、説明を中止して匆々に帰宅いたしたのでございます。きょうは皆様に、まずこの山椒魚の・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・仕事部屋にお弁当を持って出かけて、それっきり一週間も御帰宅にならない事もある。仕事、仕事、といつも騒いでいるけれども、一日に二、三枚くらいしかお出来にならないようである。あとは、酒。飲みすぎると、げっそり痩せてしまって寝込む。そのうえ、あち・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・けれども、その出版の仕事も、紙の買入れ方をしくじったとかで、かなりの欠損になり、夫も多額の借金を背負い、その後仕末のために、ぼんやり毎日、家を出て、夕方くたびれ切ったような姿で帰宅し、以前から無口のお方でありましたが、その頃からいっそう、む・・・ 太宰治 「おさん」
・・・そのおなじ日の夕方帰宅して見ると茶の間の真中に一匹の真白な小猫が坐り込んですましてお化粧をしていた。家人に聞いてみると、どこからともなく入り込んで来て、そうして、すっかりわがもの顔に家中を歩き廻っているそうである。それが不思議なことには死ん・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・これを聞いて帰宅して晩に寝ようとすると、枕もとの時計の音が「カッチン、コッチン、カッチン、コッチン、ナッシン・バッタテーラ」というふうに聞こえたくらいである。 最後の汽車と騎馬との追っ駆けは、無音映画としてはあまりに陳套な趣向であるが、・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・ そのうちに一同が帰宅して留守中に起こった非常な事件に関する私からの報告を聞いているうちに、三毛はまた第二第三の分娩を始めた。私はもうすべての始末を妻に託して二階にあがった。机の前にすわってやっと落ち着いてみると、たださえ病に弱っている・・・ 寺田寅彦 「子猫」
出典:青空文庫