いろ/\なものを読んで忘れ、また、読んで忘れ、しょっちゅう、それを繰りかえして、自分の身についたものは、その中の、何十分の一にしかあたらない。僕はそんな気がしている。がそれは当然らしい。中には、毒になるものがあるし、また、・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一眼が貴いものであったことが悟られた。と、いうように・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 然し母親は直ぐその名を忘れてしまった。そしてトウトウ覚えられなかった。―― 小さい時から仲のよかったお安は、この秋には何とか金の仕度をして、東京の監獄にいる兄に面会に行きたがった。母と娘はそれを楽しみに働くことにした。健吉からは時・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・この稀な大暑を忘れないため、流しつづけた熱い汗を縁側の前の秋草にでも寄せて、寝言なりと書きつけようと思う心持をもその時に引き出された。ことしのような年もめずらしい。わたしの住む町のあたりでは秋をも待たないで枯れて行った草も多い。坂の降り口に・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・虚偽を去り矯飾を忘れて、痛切に自家の現状を見よ、見て而してこれを真摯に告白せよ。この以上適当な題言は今の世にないのでないか。この意味で今は懺悔の時代である。あるいは人間は永久にわたって懺悔の時代以上に超越するを得ないものかも知れぬ。 以・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・息張るの高慢ぶるのという事は、わたしなんぞはとっくに忘れてしまったのだ。世に人鬼は無いものだ。つい構わずにどの内へでも這入って御覧よ。」 老人はそこの家の前に暫く立っていて、また戸口と窓とを眺めた。そのうちに老人の日に焼けた顔が忽ち火の・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・じいさんは名前の相談をしておくのをすっかり忘れていました。「そうそう。名前がまだきめてありません。ウイリイとつけましょう。」と、じいさんはでたらめにこう言いました。坊さんは帳面へ、そのまま「ウイリイ」とかきつけました。お百姓の夫婦は、い・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・そして長い間その事を忘れていたのだわ。それに気が付いたのは、実はたった今よ。(劇なぜ黙っているの。さっきにからわたしにばかり饒舌らしていて、一言も言ってくれないのね。そんなにして坐っていて、わたしの顔を見ているその目付で、わ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・若し皆が、彼女のことをすっかり忘れ切って仕舞っても、スバーは、ちっとも其を辛いとは思わなかったでしょう。 けれども、誰が心労を忘れることが出来ましょう? 夜も昼も、スバーの両親の心は彼女の為に痛んでいるのでした。 わけても、母親は彼・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・いつ書きこんだか、私は決して忘れない。けれども、今は言わない。 捨テラレタ海。と書かれてある。 秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、日の丸の提灯も捨てられ、かんざし、紙屑、レコオド・・・ 太宰治 「ア、秋」
出典:青空文庫