・・・然るにどうしたことか、ユンケル氏の宅から少し隔った、今は名を忘れたが、何でもエスで始まった名の女の宣教師の宅へ入ってしまった。その女宣教師も知った人であり、一、二度も私の家に来たこともある人ではあったのだ。ベルを押し、請ぜられて応接間に入り・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた。しかもそんな近いところに、今まで少しも人に・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・たとえば、人間の一人々々が、誰にも云わず、書かずに、どの位多くの秘密な奇怪な出来事を、胸に抱いたまま、或は忘れたまま、今までにどの位死んだことだろう。現に私だって今ここに書こうとすることよりも百倍も不思議な、あり得べからざる「事」に数多く出・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・何か忘れた物があるんじゃアないか」「なにない。何にもない」「君はなかろうが……。おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」「何をッて」 西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その時の事はもう精しくは知っていない。忘れてしまった。とにかくその青金剛石はおれが持っている。世界に二つとない正真正銘の青金剛石だ。世界中捜しても見附からないはずだ。乞食の靴の中に這入っている。誰にだって分からなかろう。誰にだってなあ。はは・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ 然るに男尊女卑の習慣は其由来久しく、習慣漸く人の性を成して、今日の婦人中動もすれば自から其権利を忘れて自から屈辱を甘んじ、自から屈辱を忍んで終に自から苦しむ者多し。唯憐む可きのみ。其然る所以は何ぞや。幼少の時より家庭の教訓に教えられ又・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・頼む一 柳子殿は両人を連れて実家へ帰らるべし一 富継健三の所得金は柳子殿に於て保管あるべし一 柳子殿は時機を見て再婚然るべし 一時の感情に任せ前後の考もなく薙髪などするは愚の極なり忘れてもさる軽挙を為すべからず・・・ 二葉亭四迷 「遺言状・遺族善後策」
・・・それにあなたがわたくしの所へいらっしゃった時の事を、まるでお忘れになるはずは無いように、わたくしには思われてなりません。高等学校を御卒業なさいましても、誰とも交際なさらずに、寂しく暮らしていらっしゃる時の事で、毎週木曜日と日曜日とには、きっ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・周囲の物に心を委ねて我を忘れた事は無い。果ては人と人とが物を受け取ったり、物を遣ったりしているのに、己はそれを余所に見て、唖や聾のような心でいたのだ。己はついぞ可哀らしい唇から誠の生命の酒を呑ませて貰った事はない。ついぞ誠の嘆にこの体を揺ら・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・そのかたむきて橋上に頂根突けむ真心たふとをりにふれてよみつづけける吹風の目にこそ見えぬ神々は此天地にかむづまります独楽たのしみは戎夷よろこぶ世の中に皇国忘れぬ人を見るときたのしみは鈴屋大人・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫