・・・、良雄の後の障子に、影法師が一つ映らなかったなら、そうして、その影法師が、障子の引手へ手をかけると共に消えて、その代りに、早水藤左衛門の逞しい姿が、座敷の中へはいって来なかったなら、良雄はいつまでも、快い春の日の暖さを、その誇らかな満足の情・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを漂わしていた。 壁際の籐椅子に倚った房子は、膝の三毛猫をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂そうな視線を遊ばせていた・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ この棟の低い支那家の中には、勿論今日も坎の火っ気が、快い温みを漂わせていた。が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦に触れる拍車の音にも、卓の上に脱いだ外套の色にも、至る所に窺われるのであった。殊に紅唐紙の聯を貼った、埃臭い白壁の上に、束髪に結・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ その中の一人、――縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。「おお、押してくよう」 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。「われは中中力があるな」 他の一人、――耳に巻煙草・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・それが彼にとってはどれもこれも快いと思われるものではなかった。彼は征服した敵地に乗り込んだ、無興味な一人の将校のような気持ちを感じた。それに引きかえて、父は一心不乱だった。監督に対してあらゆる質問を発しながら、帳簿の不備を詰って、自分で紙を・・・ 有島武郎 「親子」
・・・その中で彼れは快い夢に入ったり、面白い現に出たりした。 仁右衛門はふと熟睡から破られて眼をさました。その眼にはすぐ川森爺さんの真面目くさった一徹な顔が写った。仁右衛門の軽い気分にはその顔が如何にもおかしかったので、彼れは起き上りながら声・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如くおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっと起き上って窓から外を見・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ しかしね、こんな塩梅ならば、まあ結構だと思って、新さん、あなたの処へおたよりをするのにも、段々快い方ですからお案じなさらないように、そういってあげましたっけ。 そうすると、つい先月のはじめにねえ、少しいつもより容子が悪くおなんなす・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・爰で産落されては大変と、強に行李へ入れて押え付けつつ静かに背中から腰を撫ってやると、快い気持そうに漸と落付いて、暫らくしてから一匹産落し、とうとう払暁まで掛って九匹を取上げたと、猫のお産の話を事細やかに説明して、「お産の取上爺となったのは弁・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ いまこゝに、どんなに快い調子が繰り返されていても、如何にそれがある優しみの感じを人の心に与えても、その中に含まれている思想が依然として在来のものであったなら、私はそれを求むるところの詩という事が出来ない。極端に言えば、旧文化に安住して・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
出典:青空文庫