・・・ この観念出来るということは、恐ろしいという言葉をつかってもいいくらいの、たいした能力である。人はこの能力に戦慄することに於て、はなはだ鈍である。 動きのあること。それは世のジャーナリストたちに屡々好評を以て迎えられ、動きのないこと・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・と同時に、恐ろしい動揺がまた始まって、耳からも頭からも、種々の声が囁いてくる。この前にもこうした不安はあったが、これほどではなかった。天にも地にも身の置きどころがないような気がする。 野から村に入ったらしい。鬱蒼とした楊の緑がかれの上に・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・「それは修学期の最後における恐ろしい比武競技のように、遥かの手前までもその暗影を投げる。生徒も先生も不断にこの強制的に定められた晴れの日の準備にあくせくしていなければならない。またその試験というのが人工的に無闇に程度を高く捻じり上げたもので・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・のシャフトの排水樋を夜窃に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろしい勢を以て瞬く間に総崩れに陥ち込ん・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇、地蟲、はさみ蟲、冬の住家に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹・・・ 永井荷風 「狐」
・・・然し太十は四十になるまで恐ろしい堅固な百姓であった。彼は貧乏な家に生れた。それで彼は骨が太くなると百姓奉公ばかりさせられた。彼はうまく使えば非常な働手であった。彼は一剋者である。一旦怒らせたら打っても突いてもいうことを聴くのではない。性癖は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「雄大だろう、君」と云った。「全く雄大だ」と碌さんも真面目で答えた。「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。「革命か」「うん。文明の革命さ」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・しかもただ一歩で、すぐ捉へることができるやうに、虚偽の影法師で欺きながら、結局あの恐ろしい狂気が棲む超人の森の中へ、読者を魔術しながら導いて行く。 ニイチェを理解することは、何よりも先づ、彼の文学を「感情する」ことである。すべての詩の理・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・「恐ろしいもんだ。俺なんざあ、三十年も銅や岩ばっかり噛って来たが、それでも歯が一本も欠けねえ」「岩は、俺たちの米のおまんまだ」 と云う程、慣れ切った仕事であったのに、それでもその一瞬間は、たとい夏であっても体のどこかに、寒さに似・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・それも自分ゆえであると、善吉の真情が恐ろしいほど身に染む傍から、平田が恋しくて恋しくてたまらなくなッて来る。善吉も今日ッきり来ないものであると聞いては、これほど実情のある人を、何であんなに冷遇くしたろう、実に悪いことをしたと、大罪を犯したよ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫