・・・そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活というものを考えていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さっぱり見当が附かないのだよ」「フン、どうして君はそうかな。些とも漠然とした恐怖なんかじゃないんだ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ そして絶え間のない恐怖の夢を見ながら、物を食べる元気さえ失せて、遂には――死んでしまう。 爪のない猫! こんな、便りない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆に陥った天才にも似ている! この空想はいつ・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 言うに言われぬ恐怖さが身内に漲ぎってどうしてもそのまま眠ることが出来ないので、思い切って起上がった。 次の八畳の間の間の襖は故意と一枚開けてあるが、豆洋燈の火はその入口までも達かず、中は真闇。自分の寝ている六畳の間すら煤けた天井の・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・しかし老人は、恐怖と、それが嘘であることを感じていた。彼は鼻も口も一しょになってしまうような泣き面をした。「俺は殺され度くない。いつ、そんな殺されるような悪いことをしたんだ!」と眼は訴えていた。「俺は生きられるだけ生きたいんだ! 朝鮮人だっ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・不可解は恐怖になり、恐怖は遁逃を思わしめるに至った。で、何も責め立てられるでも無く、強請されるでも無いが、此男の前に居るに堪え無くなって、退こうとした。が、前に泣臥している召使を見ると、そこは女の忽然として憤怒になって、「コレ」と、・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ なるほど、天下多数の人は、死を恐怖しているようである。しかし、彼らとても、死のまぬがれぬのを知らぬのではない。死をさけられるだろうとも思っていない。おそらくは、彼らのなかに一人でも、永遠の命はおろか、大隈伯のように、百二十五歳まで生き・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・立ち止まって、その音に何時でも耳をすましていると、急にワクワクと身体が底から顫えてくる――恐怖に似た物狂おしさが襲ってきた。その時、今でも覚えている、俺はワッと声をあげて泣けるものなら、子供よりもモッと大声を上げて、恥知らずに泣いてしまいた・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・この想像から、おげんはいいあらわし難い恐怖を誘われた。「小山さん、弟さんですよ」 と、ある日、看護婦が熊吉を案内して来た。おげんは待ち暮らした弟を、自分の部屋に見ることが出来た。「今日は江戸川の終点までやって来ましたら、あの電車・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・保護者にはぐれた子どもたちが、おんおんないてうろうろしている。恐怖と悲嘆とに気が狂った女が、きいきい声をあげてかけ歩く。びっくりしたのと、無理に歩いて来たのとで、きゅうに産気づいて苦しんでいる妊婦もあり、だれよだれよと半狂乱で家族の人をさが・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・見ているうちに、私は、ふと或る事に思い到り、恐怖した。「この蝋燭は短いね。もうすぐ、なくなるよ。もっと長い蝋燭が無いのかね。」「それだけですの。」 私は黙した。天に祈りたい気持であった。あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、または・・・ 太宰治 「朝」
出典:青空文庫