・・・特に世の常の巌の色はただ一ト色にしておかしからぬに、ここのは都ての黒きが中に白くして赤き流れ斑の入りて彩色をなせる、いとおもしろし。憾むらくは橋立川のやや遠くして一望の中に水なきため、かほどの巌をして一トしおの栄あらしむること能わず、惜みて・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ここは政元も偉かった。憾むらくは良い師を得なかったようである。婦人に接しない。これも差支ないことであった。自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏したのは恐ろしい信仰心の凝固りであった。そ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・私はこの習慣については、実は内心大いに閉口しているのだが、しかし、これとても、私のつまらぬおべっかの報いに違いないのだから、誰をも恨む事が出来ない。以下はその日の、座談筆記の全文である。括弧の中は、速記者たる私のひそかな感懐である。・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・「何も俺を怨むわけがない。お前は一体何処にいたのだ。皆が地球を分け合っているとき。」詩人は答えた。「私は、あなたのお傍に。目はあなたのお顔にそそがれて、耳は天上の音楽に聞きほれていました。この心をお許し下さい。あなたの光に陶然と酔って、地上・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・ 八、他をも恨めども、自らを恨むこと我より甚しきはあるまじ。 九、起きてみつ寝てみつ胸中に恋慕の情絶える事無し。されども、すべて淡き空想に終るなり。およそ婦女子にもてざる事、わが右に出ずる者はあるまじ。顔面の大きすぎる故か。げせぬ事・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・と言って恨む場合や、また先生と弟子との間には了解が成立しているのに頼まれもせぬ傍観者がこれを問題にして陰で盛んにその先生を非難し弟子をたきつけるといったような場合は、西洋でも東洋でもしばしば見聞する現象である。もっとも中には、実際に、単に素・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・に特別のアクセントを置いて、なんべんとなく、泣くように訴えるように恨むように、また堪え難い憤懣を押しつぶしたような声で繰り返している片言まじりの日本語を聞いていたときに、自分はやはり妙に悲しいようなさびしいような情けないような不思議な感じに・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく、手錠をはめられ板木を取壊すお上の御成敗を甘受していたのだと思うと、時代の思想はいつになっても、昔に代らぬ今の世の中、先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部やカフェーの媛炉のほとりに葉巻・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・いたずらに指を屈して白頭に到るものは、いたずらに茫々たる時に身神を限らるるを恨むに過ぎぬ。日月は欺くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖えるのみじゃ。蜀川十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。 八畳の・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・が、そうするとボンヤリして来る。恨むらくはボンヤリして来る。けれどもボンヤリしてもほかのものと区別ができればそれでよいでしょう。さっき牧君の紹介があったように夏目君の講演はその文章のごとく時とすると門口から玄関へ行くまでにうんざりする事があ・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫