・・・年老いた身の寄せ場所もないような冷たく傷ましい心持が、親戚の厄介物として見られような悲しみに混って、制えても制えても彼女の胸の中に湧き上り湧き上りした。熊吉が来て、姉弟三人一緒に燈火の映る食卓を囲んだ時になっても、おげんの昂奮はまだ続いてい・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・おとうさんはおかあさんよりもっと深い悲しみを持って、今は遠い外国に行っているのでした。 ミシンはすこし損じてはいますが、それでも縫い進みました。――人の心臓であったら出血のために動かなくなってしまうほどたくさん針が布をさし通して、一縫い・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・細君にそむかれて、その打撃のためにのみ死んでゆく姿こそ、清純の悲しみではないか。けれども、おれは、なんだ。みれんだの、いい子だの、ほとけづらだの、道徳だの、借銭だの、責任だの、お世話になっただの、アンチテエゼだの、歴史的義務だの、肉親だの、・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・その音は、あらゆる人の世の言葉にも増して、遣る瀬ない悲しみを現わしたものである。私がGの絃で話せば、マリアナはEの絃で答える。絃の音が、断えては続き続いては消える時に、二人は立止まる。そして、じっと眼を見交わす。二人の眼には、露の玉が光って・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・に似た悲しみを覚えた。もう一度必ず来て見たいと期待しながら、去って他の地へ行くのである。しかしながら期待の実行は偶然の機会を待つより外はない。 八幡の町の梨畠に梨は取り尽され、葡萄棚からは明るく日がさすようになった。玉蜀黍の茎は倒れて見・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・だが心ある人々は、重吉のために悲しみ、眉をひそめて嘆息した。金鵄勲章功七級、玄武門の勇士ともあろう者が、壮士役者に身をもち崩して、この有様は何事だろう。 次第に重吉は荒んで行った。賭博をして、とうとう金鵄勲章を取りあげられた。それから人・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・おそろしい悲しみと、歯噛みしたいような憤怒とが、一度に彼の腹の底からこみ上げて来た。 が、吉田はすべての感情を押し堪えて、子供を背中に兵児帯で固く縛りつけて、高等係中村と家を出た。 子供は、早朝の爽やかな空気の中で、殊に父に負ぶさっ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・の夏子の愛くるしさは躍如としているし、その愛らしい妹への野々村の情愛、夏子を愛する村岡の率直な情熱、思い設けない夏子の病死と死の悲しみにたえて行こうとする村岡の心持など、いかにもこの作者らしい一貫性で語られている。 こういう文章のたちと・・・ 宮本百合子 「「愛と死」」
・・・ 二 彼と妻との間には最早悲しみの時機は過ぎていた。彼は今まで医者から妻の死の宣告を幾度聞かされたか分らなかった。その度に彼は医者を変えてみた。彼は最後の努力で彼の力の及ぶ限り死と戦った。が、彼が戦えば戦うほど、・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・しかし私は絶望する心を鞭うって自己を正視する。悲しみのなかから勇ましい心持ちが湧いて出るまで。私の愛は恋人が醜いゆえにますます募るのである。 私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断然押えつけてしまうつもりで、近ごろある製作に従事・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫