・・・その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。丁度、去年の極月十五日に、亡君の讐を復して、泉岳寺へ引上げた時、彼自ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・あのどちらかと言えば、泥濁りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落したいような、言いがたい慰安と寂寥とを感・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・だから本当をいうと、彼は誰に不愉快を感じるよりも、彼自身にそれを感じねばならなかったのだ。そしてそれがますます彼を引込み思案の、何事にも興味を感ぜぬらしく見える男にしてしまったのだ。 今夜は何事も言わないほうがいい、そうしまいに彼は思い・・・ 有島武郎 「親子」
・・・こう思うと、またある特殊の物、ある暗黒なる大威力が我身の内に宿っているように感じるのである。 もしこいつ等が、己が誰だということを知ったなら、どんなにか目を大きくして己の顔を見ることだろう。こう思って、きょうの処刑の状況、その時の感じを・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・豹一は妓の白い胸にあるホクロ一つにも愛惜を感じる想いで、はじめて嫉妬を覚えた。博奕打ちに負けたと思うと、血が狂暴に燃えた。妓が「疳つりの半」に誘惑された気持に突き当ると、表情が蒼凄んだ。不良少年と喧嘩する日が多くなった。そして、博奕打ちに特・・・ 織田作之助 「雨」
・・・そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇かかって何してるのや」こんな口を利いた。 柳吉は二十歳の蝶・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 彼が躍起となって鞭撻を加えれば加えるほど、私の心持はただただ萎縮を感じるのだ。彼は業を煮やし始めた。それでもまだ、彼が今度きゅうに、会のすんだ翌朝、郷里へ発たねばならぬという用意さえできなかったら、あるいはお互の間が救われたかもしれない。・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・勿論彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立っていて、彼らの窓を眺め、彼らの姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであろうことを想い、その刺戟を通して、何の感動もない彼らの現実にもある陶酔が起こって来るだろうことを予想しているのであった。しかし彼には・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗を感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓のない恐怖にある限界を与えるこ・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ 暫時無言で二人は歩いていたが、大友は斯く感じると、言い難き哀情が胸を衝いて来る。「然しね、お正さん、貴女も一旦嫁いだからには惑わないで一生を送った方が可しいと僕は思います。凡て女の惑いからいろんな混雑や悲嘆が出て来るものです。現に・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫