・・・ その青年の顔にはわずかの時間感傷の色が酔いの下にあらわれて見えた。彼はビールを一と飲みするとまた言葉をついで、「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶い出すんです。僕一人が世間に住みつ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆されたような気がした。 ――食ってしまいたくなるような風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。また時どき寝られない夜が来た。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・舷の触れ合う音、とも綱の張る音、睡たげな船の灯、すべてが暗く静かにそして内輪で、柔やかな感傷を誘った。どこかに捜して宿をとろうか、それとも今の女のところへ帰ってゆこうか、それはいずれにしても私の憎悪に充ちた荒々しい心はこの港の埠頭で尽きてい・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・うるおいと感傷との豊かな点では私はまれな作品だろうと思う。あれをセンチメンタルだと評する人もあるが、あの中には「運命に毀たれぬ確かなもの」を追求しようとする強い意志が貫いているのだ。 ただ私は当時物質的苦労、社会的現実というもの、つまり・・・ 倉田百三 「『出家とその弟子』の追憶」
・・・私は必ずしも感傷的にとはいわない。何故なら深い別れというものは涙を噛みしめ、この生のやむなき事実に忍従したもので、そこには知性も意志も働いた上のことだからである。 人間が合いまた離れるということは人生行路における運命である。そしてこれは・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ この三郎の感傷的な調子には受け売りらしいところもないではなかったが、まだ子供だ子供だとばかり思っていたものがもはやこんなことを言うようになったかと考えて、むしろ私にはこの子の早熟が気にかかった。 震災以来、しばらく休みの姿であった・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・所詮、作者の、愚かな感傷ではありますが、殺された女学生の亡霊、絶食して次第に体を萎びさせて死んだ女房の死顔、ひとり生き残った悪徳の夫の懊悩の姿などが、この二、三日、私の背後に影法師のように無言で執拗に、つき従っていたことも事実であります。・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・少し感傷的な、あまい事なども書かれてありますから。まあ、御推察を願います。」「それは、よかった。まとめてやったら、どうですか。」「僕ひとりでは駄目です。あなたにも御助力ねがいたい。きょうこれから先方へ、申込みに行こうと思っているので・・・ 太宰治 「佳日」
・・・それに加えて、生来の臆病者でありますから、文壇の人たちとの交際も、ほとんど、ございませんし、それこそ、あの古い感傷の歌のとおりに、友みなのわれより偉く見える日は、花を買い来て妻と楽しんでいるような、だらしの無い、取り残された生活をしていて、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ 病犬を射殺するやや感傷的な場面がある。行きには人と犬との足跡のついた同じ道を帰りはただ人だけが帰ってくるのである。安価な感傷と評した人もあったがしかしそれがかなりな真実味をもって表現されている。殺す相談をして雪の中に立っている四人の姿・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫