・・・「否、憎らしいとその時思うことが出来るなら左まで苦しくは無いのです。ただ悲嘆かったのです。」 お正の両頬には何時しか涙が静かに流れている。「今は如何なに思っておいでです」とお正は声をふるわして聞いた。「今ですか、今でも憎いと・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 俺ら、あいつが憎らしいんだ。」「ようし!」「俺ら、あの長い軍刀がほしいんだ。あいつもやったれい!」 彼等はだんだん愉快になってきた。………… 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・と唄い終ったが、末の摘んで取ろの一句だけにはこちらの少年も声を合わせて弥次馬と出掛けたので、歌の主は吃驚してこちらを透かして視たらしく、やがて笑いを帯びた大きな声で、「源三さんだよ、憎らしい。」と誰に云ったのだか分らない・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・第一、ぼくが全く無意義な存在であること、例え、マルクスが商事会社――ブローカー――広告業――外交販売員が社会にとって有害であると説かぬにしろ、ぼくは自分の商売が憎らしいのに決っています。曾つて、主任から、個性を殺せと説教されました。そうして・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私は、なんだか先生が気の毒なやら、憎らしいやらで、泣きそうになりました。それでも三箇月間ほど我慢して、そんな侘びしい、出鱈目の教育をつづけて受けて居りましたが、もう、なんとしても、沢田先生のお顔を見るのさえ、いやになって、とうとう父に洗いざ・・・ 太宰治 「千代女」
・・・よくあいつは遊んでいて憎らしいとかまたはごろごろしていて羨ましいとか金持の評判をするようですが、そもそも人間は遊んでいて食える訳のものではない。遊んでいるように見えるのは懐にある金が働いてくれているからのことで、その金というものは人のために・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今晩来たのね。まだお国へ行かないの」 平田はちょいと吉里を見返ッてすぐ脇を向いた。「さアそろそろ始まッたぞ。今夜は紋日でなくッて、紛紜日とでも言う・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・従って、彼より憎らしい女になる時がある代り、その強さが素直に出た時、私が辛じて、天に達する階子のありかを知ることの出来る足場となるのだ。」「或女」以後、私は、彼の作品が、或行き詰りを持ち始めたことを知った。読んで見ると、精神の充実したフ・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・まで焼くのかと思うと栄蔵は、憎らしい気持が倍にもなって来た。 しばらくだまり返って居たお金は、ややしばらく立ってから、真剣にお君の事についての相談をもち出してきた。 お金は良吉でさえびっくりする様な、明細な小使町(を、お君のために作・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・出て来てからそのときの話をきくと、まあ何と憎らしいことでしょう! 駒込署の高等係は、余り二人の同志が私に会わせろとガン張るのに閉口して留置場まで降りて行ったふりをし、私が「こういう場所では会いたくないから」と云ったと見えすいた嘘をついて到頭・・・ 宮本百合子 「逆襲をもって私は戦います」
出典:青空文庫