・・・はじめは掌で、お顔の汗を拭い払って居りましたが、とてもそんなことで間に合うような汗ではございませぬ。それこそ、まるで滝のよう、額から流れ落ちる汗は、一方は鼻筋を伝い、一方はこめかみを伝い、ざあざあ顔中を洗いつくして、そうしてみんな顎を伝って・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 火の消えない吸殻を掌に入れて転がしながら、それで次の一服を吸付けるという芸当も真似をした。この方はそんなに六かしくはなかったが時々はずいぶん痛い思いをしたようである。やはりそれが出来ないと一人前の男になれないような気がしたものらしい。・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ 善ニョムさんは、片手を伸すと、一握りの肥料を掴みあげて片ッ方の団扇のような掌へ乗せて、指先で掻き廻しながら、鼻のところへ持っていってから、ポンともとのところへ投げた。「いい出来だ、これでお天気さえよきゃあ豊年だぞい」 善ニョム・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・是等の人達の上に立って営業の事務一切を掌る支配人が一人、其助手が一人あった。数え来れば少からぬ人員となる。是の人員が一団をなして業を営む時には、ここに此の一団固有の天地の造り出されるのは自然の勢である。同じ銀座通に軒を連ねて同じ営業をしてい・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 余は婆さんの労に酬ゆるために婆さんの掌の上に一片の銀貨を載せた。ありがとうと云う声さえも朗読的であった。一時間の後倫敦の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方へと隔てた。・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・このタテタテの花というのは紫色の小さな袋のような花で、その中にある蕊を取ってそれを掌の上に並べ置き、手の脈所のところをトントンと叩くとその小さな蕊が縦に立って掌にひっついて居るのが面白いので、子供の中にこの花を見つけるといつでもこういう遊び・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・と言いながら、屈んで一本のすすきを引き抜いて、その根から土を掌にふるい落して、しばらく指でこねたり、ちょっと嘗めてみたりしてから云いました。「うん。地味もひどくよくはないが、またひどく悪くもないな。」「さあ、それではいよいよこことき・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・ 彼は尤もな攻撃に当惑し、頻りに掌で髪を撫であげた。そして熱心に弁解的説明をした。「相談しなかったのはあやまるよ。然し、本当に五月蠅い気の揉める婆じゃないか」 彼は、さっきれんが一年にたった一度のクリスマスと云った口調を、その節・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・そのとき歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛みが、掻き消すように失せた。掌で額を撫でてみれば、創は痕もなくなった。はっと思って、二人は目をさました。 二人の子供は起き直って夢の話をした。同じ夢を同じときに見たのである。安寿は守本尊を取り・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・と同時に安次の弱さに腹の底から憎悪を感じると、彼の掌はいきなり叩頭している安次の片頬をぴしゃりと打った。「しっかり、養生しやれ。」 秋三は嘲弄した微笑を勘次に投げた。「ええか、頼んだぞ。」と彼は云うと、威勢好く表へ立った。 ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫