・・・俥夫三年の間にちびちび溜めて来たというものの、もとより小資本で、発行部数も僅か三百、初号から三号までは、無料で配り、四号目には、もう印刷屋への払いが出来なかった。のみならず、いかに門前の俥夫だったとはいえ、殆んど無学文盲の丹造の独力では、記・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・――自分はこうも思いたかったのだが、迂濶に物を書いてはならない――そうした気持を払い退けることができなかった。あまりにも暗い刺戟的な作――つまりはその基調となっている現在の生活を棄てなければ、出て行かなければ――それが第一の問題なのだが、と・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・おりおり立ち止まっては毛布から雪を払いながら歩みます、私はその以前にもキリスト教の会堂に入ったことがあるかも知れませんが、この夜の事ほどよく心に残っていることはなく、したがってかの晩初めて会堂に行った気が今でもするのであります。 道々二・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく、――」 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲の・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・川井と後藤とは、銃がないことを残念がりながら、手あたり次第に犬を剣で払いのけた。が、犬は、払いのけきれない程、次から次へとつゞいて殺倒した。全く、彼等を喰い殺さずにはおかないような勢いだった。その時、浜田は、自分の銃でない、ちがった銃声を耳・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 三 木代が、六十円ほどはいったが、年末節季の払いをすると、あと僅かしか残らなかった。予め心積りをしていた払いの外に紺屋や、樋直し、按摩賃、市公の日傭賃などが、だいぶいった。病気のせいで彼はよく肩が凝った。で、しょ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚上髭頬髯を無遠慮に生やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚にまださほどは居ぬ蚊を吾家から提げた大きな雅な団扇で緩く払いながら、逼らぬ気味合で眼のまわりに皺・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 一々に数え来れば其種類は限りもないが、要するに死其者の恐怖すべきではなくて、多くは其個個が有せる迷信・貪欲・愚癡・妄執・愛着の念を払い得難き性質・境遇等に原因するのである、故に見よ、彼等の境遇や性質が若し一たび改変せられて、此等の事情・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・エヘンとせき払いをすると、向う端で誰かゞ、エヘンと答える。それから時には肱で、壁をたゝいて、合図をした。 そのコンクリートの壁には、看守の目を盗んで書いたらしく、泥や――時には、何処から手に入れるものか白墨で「共」という字や、中途半端な・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・――ところが、秀夫さんの方が何かと云うのに舌が口にねばり、乾いたせき払いをして、何時もとちがった声を出し、下り口に立っても、お母さんが靴を出してやらないと妙にウロ/\したり、帽子をかぶるのを忘れて、あわてたそうよ。 夜が明けてから、お前・・・ 小林多喜二 「母たち」
出典:青空文庫