・・・ 船体の動揺の刹那まで、私の足の踝にジャックナイフの突き通るまでは、私にも早朝の爽快さと、溌溂さとがあった。けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に神経は失くなり、多くの血管は断ち切られた。そして、その後では、新鮮な溌溂たる疼・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 子供は、早朝の爽やかな空気の中で、殊に父に負ぶさっていると云う意識の下に、片言で歌を唄いながら、手足をピョンピョンさせた。――一九二六、一一、二六―― 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・「お誂えは何を通しましょうね。早朝んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐にでもしましょうかね。それに油卵でも」「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」 吉里は何も言わず、つ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・外には活溌にして内には懶惰、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に入らざれば帰らず。あるいは夜分に外出することあり、不意に旅行することあり。主人は・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・なかのものがその辺にとりちらされ、鼈甲のしんに珊瑚の入った花の簪が早朝の黒い土に落ちて、濡れていた。 一番終りのときは、弟二人が大きくなっていた。上の弟が夜あけに不図目をあけたら、足許の戸棚のところに何か黒いものが見えたので、何の気なし・・・ 宮本百合子 「からたち」
・・・あなたは一人の母として、三人の小さい者たちとともに宵に寝、早朝におきつつ、童話・神話の世界から漸次より社会的な主題へと発展されました。この点も、婦人作家として、特徴的な経歴です。日本の社会的事情は、あなたのような程度の教養的環境と理解との中・・・ 宮本百合子 「含蓄ある歳月」
・・・ 二日目の通夜が、徐々朝になりかけて来ると、私は今日限りの別れが云いようなく惜まれて来た。早朝の寒い空気の中で御蝋燭を代え、暫く棺を見守り、父の処へ行った。私は疲れていたので、桐ケ谷には行かない予定に成っていたのだ。私は父に自分も先方ま・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・やはり何度でも事務所でと答え、後年は、そういう習慣が世間一般にも少なくなったので、早朝のお客様との押し問答が稀れになりました。 夕刻事務所から早く帰った日には、皆でテーブルを囲んで夕飯をたべ、後は談笑したり、音楽をきいたり、興に乗じると・・・ 宮本百合子 「父の手帳」
・・・大抵早朝上野についた。そこから札を買って乗る人力車で家まで来る。その知らせで母が驚いて起きて来、祖母に挨拶がすむと、「一寸電報でも前もって下さればようございましたのに、いつも不意でお迎えも出ません」とやや気むずかしげにいう。祖母は、・・・ 宮本百合子 「百銭」
・・・雨のあとで太陽が輝き出すと、早朝のような爽やかな気分が、樹の色や光の内に漂うて、いかにも朗らかな生の喜びがそこに躍っているように感ぜられる。おりふしかわいい小鳥の群れが活き活きした声でさえずり交わして、緑の葉の間を楽しそうに往き来する。――・・・ 和辻哲郎 「樹の根」
出典:青空文庫