・・・地下道にある阪神マーケットの飾窓のなかで飾人形のように眠っている男は温かそうだと、ふと見れば、飾窓が一つ空いている。ありがたいと起きて行き、はいろうとすると、繩の帯をした薄汚い男が、そこは俺の寝床だ、借りたけりゃ一晩五円払えと、土蜘蛛のよう・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ お早うを言いにあがって来た信子は「まあ、温かね」と言いながら、蒲団を手摺りにかけた。と、それはすぐ日向の匂いをたてはじめるのであった。「ホーホケキョ」「あ、鶯かしら」 雀が二羽檜葉を揺すって、転がるように青木の蔭へかく・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 自分は持て来た小説を懐から出して心長閑に読んで居ると、日は暖かに照り空は高く晴れ此処よりは海も見えず、人声も聞えず、汀に転がる波音の穏かに重々しく聞える外は四囲寂然として居るので、何時しか心を全然書籍に取られて了った。 然にふと物・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・肉づきまでがふっくりして、温かそうに思われたが、若し、僕に女房を世話してくれる者があるなら彼様のが欲しいものだ」 それならば大友はお正さんに恋い焦がれていたかというと、全然、左様でない。ただ大友がその時、一寸左様思っただけである。 ・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 彼等は、家庭の温かさと、情味とに飢え渇していた。西伯利亜へ来てから何年になるだろう。まだ二年ばかりだ。しかし、もう十年も家を離れ、内地を離れているような気がした。海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ オンドルは、おだやかな温かみを徐ろに四肢に伝えた。虱は温か味が伝わるに従って、皮膚をごそ/\とかけずりまわった。 もう暗かった。 五時。――北満の日暮は早やかった。経理室から配給された太い、白い、不透明なローソクは、棚の端に、・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・花やかで美しかった、暖かで燃え立つようだった若い時のすべての物の紀念といえば、ただこの薄禿頭、お恰好の紅絹のようなもの一つとなってしもうたかとおもえば、ははははは、月日というものの働きの今更ながら強いのに感心する。人の一代というものは、思え・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・触った其手は暖かであった、なよやかであった。其力はやわらかであった、たしかに鄙しく無い女の手であった。これには男は又ギョッとした。が、しかし逃げもしなかった、口もきかなかった。「何んな運にでもぶつかって呉りょう、運というものの面が見たい・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・かず枝の蒲団の足のほうに、大きい火燵がいれられていて、温かそうであった。嘉七は、自分のほうの蒲団は、まくりあげて、テエブルのまえにあぐらをかき、火鉢にしがみつきながら、お酒を呑んだ。さかなは、鑵詰の蟹と、干椎茸であった。林檎もあった。「・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・からだに、厭な温かさが残って、やりきれない。何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきり掴めるのか。これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。批判をしてみて、厭な、弱いところに気附くと、すぐ・・・ 太宰治 「女生徒」
出典:青空文庫