・・・ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。 二、三日してアパートの部屋に、金木犀の一枝を生けて置いた。その匂いが私の孤独・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・光っていた木犀の香が消された。 風通しの良い部屋をと言うと、二階の薄汚い六畳へ通された。先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・アパートの中庭では、もう木犀の花が匂っていた。 死んでしまった姉に思いがけなく手紙が舞い込んで来るなど、まるで嘘のような気がした。姉が死んだのは、忘れもしない生国魂神社の宵宮の暑い日であったが、もう木犀の匂うこんな季節になったのかと、姉・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・あの松の下に蘭があって、その横にサフランがあって、その後ろに石があって、その横に白丁があって、すこし置いて椿があって、その横に大きな木犀があって、その横に祠があって、祠の後ろにゴサン竹という竹があって、その竹はいつもおばアさんの杖になるので・・・ 正岡子規 「初夢」
出典:青空文庫