・・・少くとも小説の本文には。 保吉 いや、必要ですよ。若い外交官の月給などは高の知れたものですからね。 主筆 じゃ華族の息子におしなさい。もっとも華族ならば伯爵か子爵ですね。どう云うものか公爵や侯爵は余り小説には出て来ないようです。・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・――筆者は本文へはいる前に、これだけの事を書いている。従ってもし読者が当時の状景を彷彿しようと思うなら、記録に残っている、これだけの箇条から、魚の鱗のように眩く日の光を照り返している海面と、船に積んだ無花果や柘榴の実と、そうしてその中に坐り・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
おれは締切日を明日に控えた今夜、一気呵成にこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・と、ほとんど心配そうな顔色で徐に口を切ったのが、申すまでもなく本文の妖婆の話だったのです。私は今でもその若主人が、上布の肩から一なすり墨をぼかしたような夏羽織で、西瓜の皿を前にしながら、まるで他聞でも憚るように、小声でひそひそ話し出した容子・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ さて本文の九に記せる、菊地弥之助と云う老人は若き頃駄賃を業とせり。笛の名人にて、夜通しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜にあまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取出して吹きすさ・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・――さて、これからが話の本文に這入るのやて――」「まア、一息つき給え」と、僕は友人と盃の交換をした。酔いもまわったのであろう、友人は、気質に似合わず、非常にいい気持ちの様子で、にこにこ笑うている。然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・結城以後影を隠した徳用・堅削を再出して僅かに連絡を保たしめるほかには少しも本文に連鎖の無い独立した武勇談である。第九輯巻二十九の巻初に馬琴が特にこの京都の物語の決して無用にあらざるを強弁するは当時既に無用論があったものと見える。一体、親兵衛・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 五月十二日 心細いことを書いている中にお露が来たので、昨夜は書き続きの本文に取りかからなかった。さて―― もしお政が気の勝ている女ならば、自分がその夜三円持て母を尋ねると言えば、「質屋から持って来たお金なんか厭だと被仰った・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・限りあれも小春これも小春兄さまと呼ぶ妹の声までがあなたやとすこし甘たれたる小春の声と疑われ今は同伴の男をこちらからおいでおいでと新田足利勧請文を向けるほどに二ツ切りの紙三つに折ることもよく合点しやがて本文通りなまじ同伴あるを邪魔と思うころは・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・でたらめばかり書いているんじゃないかと思われてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し抜萃しては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとおりではない。そんなとき両者を比較して多少の興を覚えるように案配したわけである、などと、・・・ 太宰治 「鉄面皮」
出典:青空文庫