・・・ 洋一は立て膝を抱きながら、日暦の上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。「もう一度電話でもかけさせましょうか?」「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」「さっきって?」「戸沢さんが帰るとすぐだとさ。」・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と云ったぎり、しばらくは思案に沈んでいましたが、やがてちょいと次の間の柱時計を覗きながら、「僕もそれが気になって仕方がないんだ。じゃあの婆の家へは行かないでも、近所まで偵察に行って見ようか。」と、思い切ったらしく云うのです。新蔵も実は悠長に・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 突然事務所の方で弾条のゆるんだらしい柱時計が十時を打った。彼も自分の時計を帯の間に探ったが十時半になっていた。「十時半ですよ。あなたまだ食わないんだね」 彼は少し父にあたるような声で監督にこう言った。 それにもかかわらず父・・・ 有島武郎 「親子」
・・・爪切りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもってやって来ると、「おいでやす・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そのなかには肌脱ぎになった人がいたり、柱時計が鳴っていたり、味気ない生活が蚊遣りを燻したりしていた。そのうえ、軒燈にはきまったようにやもりがとまっていて彼を気味悪がらせた。彼は何度も袋路に突きあたりながら、――そのたびになおさら自分の足音に・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹に風が黒く渡る。と、やがて眼近い夾竹桃は深い夜のなかで揺れはじめるのであった。喬はただ凝視っている。――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 路に彳んでいる堯の耳に階下の柱時計の音がボンボン……と伝わって来た。変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下って行った。 四 街路樹から次には街路から、風が枯葉を掃ってしまったあとは風の音も変わっ・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・』 猫はあわてて厨房の方へ駆けていってしまった。柱時計がゆるやかに八時を打った。『お婆さん、吉蔵が眠そうにしているじゃあないか、早く被中炉を入れてやってお寝かしな、かわいそうに。』 主人の声の方が眠そうである、厨房の方で、『・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・まだ新世帯らしい思いをさせた。「きのうまで左官屋さんがはいっていた。庭なぞはまだちっとも手がつけてない。」 と、太郎は私に言ってみせた。 何もかも新規だ。まだ柱時計一つかかっていない炉ばたには、太郎の家で雇っているお霜婆さんのほ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・黒い六角形の柱時計も同じように掛っている。大塚さんはその食卓の側に坐って、珈琲でも持って来るように、と田舎々々した小娘に吩咐けた。廊下を隔てて勝手の方が見える。働好きな婆さんが上草履の音をさせている。小娘は婆さんの孫にあたるが、おせんの行っ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
出典:青空文庫