・・・と中腰になって、鉄火箸で炭を開けて、五徳を摺って引傾がった銅の大薬鑵の肌を、毛深い手の甲でむずと撫でる。「一杯沸ったのを注しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」「源助、その事だ。」「はい・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 誰れにでもああだろうと思うと、今さらのようにあの粗い肌が連想され、僕自身の身の毛もよだつと同時に、自分の心がすでに毛深い畜生になっているので、その鋭い鼻がまた別な畜生の尻を嗅いでいたような気がした。 一三 田島・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・もう一つは毛深い熊があと足を前に投げ出してすわっている、それが首と前足とを動かして滑稽な格好をして踊りだすと腹の中でオルゴールのかわいらしい音楽が聞こえて来るのである。 父がもしかしたら、どれか一つは買ってくれるかと思っていたが、ねだる・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・雪のようだと言えばそんなに冷たいかとこたえ白うさぎのようだと言えばそんなに毛深い柔らかいのかと聞きかえした。 それでもし生まれつき盲目でその上に聾な人間があったら、その人の世界はただ触覚、嗅覚、味覚ならびに自分の筋肉の運動に連関して生ず・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・ 黒毛の猫とあんまりやせた犬とはねらわれて居るようで、かべのくずれたのはいもりを、毛深い人は雲助を思い、まのぬけて大きい人を見ると東山の馬鹿むこを、そぐわないけばけばしいなりの人を見ると浅草の活動のかんばんを思い出す。 用い・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫