・・・長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。 世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪まなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂って、路々の雪礫に目が眩んだ次第ではない。 ――逢いに来た―・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・何も貴方何の病気だか、誰にも考えが附きませぬので、ただもう体の補いになりますようなものを食べさしておくばかりでございますが、このごろじゃ段々痩せ細って、お粥も薄いのでなければ戴かないようになりました。気心の好い平生大人しい人でありますから、・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ これでは話が横道へ這入った、それからおれが松尾へ往きついてもまだ日が出なかった、松尾は県道筋について町めいてる処へ樹木に富んだ岡を背負ってるから、屋敷構から人の気心も純粋の百姓村とは少し違ってる、涼しそうな背戸山では頻りに蜩が鳴いてる・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・と男は潔く首を掉って、「お互いに小児の時から知合いで、気心だって知って知って知り抜いていながら、それが妙な羽目でこうなるというのは、よくよく縁がなかったんだろう! いや、こうなって見るとちと面目ねえ、亭主持ちとは知らずに小厭らしいことを聞か・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・川音と話声と混るので甚く聞き辛くはあるが、話の中に自分の名が聞えたので、おのずと聞き逸すまいと思って耳を立てて聞くと、「なあ甲助、どうせ養子をするほども無い財産だから、嚊が勧める嚊の甥なんぞの気心も知れねえ奴を入れるよりは、怜悧で天賦の良い・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 幸い加藤静子さんはおまえもよく知っているとおり、わが家へ長く通って来て気心もよくわかっていますから、川越のにいさんにとうさんから直接に交渉して、加藤さんをもらい受けることに話をまとめました。 このことはまだ親戚にも友人にもだれにも・・・ 島崎藤村 「再婚について」
・・・いっそ他人のふりをしようと早足に歩いてみても、ポチは私の傍を離れず、私の顔を振り仰ぎ振り仰ぎ、あとになり、さきになり、からみつくようにしてついてくるのだから、どうしたって二人は他人のようには見えまい。気心の合った主従としか見えまい。おかげで・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・それでこの見知らぬ国へ連れられて来て、わずかの間に、相手になる日本人の気心をのみ込んで卑屈な妥協を見いだすにはあまりに純良高尚すぎた性質をもっていたのである。ところがまたこの象を取り扱う人間もまたあいにくきわめて純良で正直であって、この異郷・・・ 寺田寅彦 「解かれた象」
・・・ その日、初頼という方が、持って来た下すった香奠が、将校方から十五円、兵士一同から二十円……これは皆さんが各々の気心で下すったもので、兵士方は上官から御内意があって、一人につき二銭から三銭のがなれど、人数にすれば二十と云う金高になるとい・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・兎に角僕等二三人の客の見る所、お民は相応に世間の裏表も、男の気心もわかっていて、何事にも気のつく利口な女であった。酒は好きで、酔うと客の前でもタンカを切る様子はまるで芸者のようで。一度男にだまされて、それ以来自棄半分になっているのではないか・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫