・・・雪は莟を持った沈丁花の下に都会の煤煙によごれていた。それは何か僕の心に傷ましさを与える眺めだった。僕は巻煙草をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろのことを考えていた。妻のことを、子供たちのことを、就中姉の夫のことを。…… 姉の夫・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・小さな門を中に入らなくとも、路から庭や座敷がすっかり見えて、篠竹の五、六本生えている下に、沈丁花の小さいのが二、三株咲いているが、そのそばには鉢植えの花ものが五つ六つだらしなく並べられてある。細君らしい二十五、六の女がかいがいしく襷掛けにな・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・芽ぐむ青桐の梢を見あげ、私は、独特の愛らしさ、素朴、延びようとする熱意を感じずにはいられない。沈丁花の、お赤飯のような蕾を見ても同じ、彼女の暖み、気息を感じる。個々の存在に即し、しっかりと地に繋がり、自分も我身体の重み、熱、希望を感じて、始・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・飛び石で小さいセメントの池から木戸まで、又は沈丁花の傍らまで人工的につながれた庭。通俗的な日本式庭園の型をまねて更に一層貧弱な結果を示したに過ぎない。 私は、庭が、せめてありのままの自然の一部を区切って僅の修正を施した程度のものであ・・・ 宮本百合子 「素朴な庭」
・・・ 去年の十月、Aが、中央公論に、オムマ・ハヤムの訳詩、並に伝を載せて、貰った金の一部で、三本の槇、一本の沈丁花、二本可なり大きい檜葉とを買った。二本の槇は、格子の左右に植え、檜葉は、六畳の縁先に、沈丁、他の一本の槇などは、庭に風情を添え・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・……思いかえしたように、また元の菊の葉かげ、一輪咲き出した白沈丁花の枝にとまって、首を傾け、黒い瞳で青空を瞰る。次第に強い憧れや歓喜が迫って来るらしい。自然の輝きある朝の緑、幹の色、土の色の裡で、文鳥は本当に活きている小鳥のように見えた。・・・ 宮本百合子 「春」
・・・雨戸の閉った玄関傍のつわ蕗や沈丁花の下には、いやと云う程、野犬の荒した跡がある。 隣りとの境の垣根もすけすけになった処には、塵くたが無責任に放り込んである。 余り空が明るく、太陽の光りが美しいので、幾十日か人気なく捨てられて居た家は・・・ 宮本百合子 「又、家」
・・・ この界隈は、どちらかというと樹木の多い古い土地で、めいめいの家の空地もある方だろうが、それでもやっぱり、沈丁花一つ咲かすにも程よいところを見つけるには工夫がいる有様である。 シャベルをもって縁の下の土をほりながら、私はこの間新聞で・・・ 宮本百合子 「昔を今に」
出典:青空文庫