・・・万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・多年の実験によってこれを案ずるに、書を読むこといよいよ深き者は、いよいよ沈黙するが如し。而してその黙するや、これをいうを忘れたるに非ず、時あっていうときは、その言も亦適切にして、忌憚するところなきがゆえに、時としては俗耳を驚かすことなきに非・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・その船人はまだ船の櫓の掻き分けた事のない、沈黙の潮の上を船で渡るのだ。荒海の怒に逢うては、世の常の迷も苦も無くなってしまうであろう。己はいつもこんな風に遠方を見て感じているが、一転して近い処を見るというと、まあ、何たる殺風景な事だろう。何だ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なるものにつきて美を求むるは易く、複雑なるものは難し。沈黙せるものを写すは易く、活動せるものは難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的によく天然を写し得たるは易きより入・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・けれども富沢はその夕暗と沈黙の奥で誰かがじっと息をこらして聴き耳をたてているのを感じた。老人はじぶんでとりに行く風だった。(いいえ。さっきの泉で洗いますから、下駄をお借老人は新らしい山桐の下駄とも一つ縄緒の栗の木下駄を気の毒そうに一つも・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・精女沈黙。重って来た困る事にすき通る様なかおをして壺のかすかに光るのを見る。ペーンはそのかおを眉のあたりからズーッと見廻して神秘的の美くしさに思わず身ぶるいをしてひくいながら心のこもった声で云う。ペーン マア何と云う御前は美・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。 新橋へ著・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。・・・ 横光利一 「蠅」
・・・静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱とがある。 己は静かな所で為事をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前であった。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ことに彼が沈黙と憂愁との内に静かにうなだれているのを見ると、じっとしていられないような、飛びついて抱いてやりたいような心持ちになります。一つには身にツマされるせいもあるでしょう。しかしこの悲哀は人類の悲哀です。この悲哀にしみじみと心を浸して・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫