・・・雲がかかると満月がたちまちかくれる。(一息に煽切ああッ、う――い。……御勘定……(首にかけた汚き大蝦蟇口より、だらしなく紐を引いてぶら下りたる財布を絞り突銭弘法様も月もだがよ。銭も遍く金剛を照すだね。えい。(と立つ。脊高き痩脛、破股引にて、・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 満月ではなかったが、一点の曇りもない冴えた月夜で、丘の上から遠く望むと、見渡す果もなく一面に銀泥を刷いたように白い光で包まれた得もいわれない絶景であった。丁度秋の中頃の寒くも暑くもない快い晩で、余り景色が好いので二人は我知らず暫らく佇・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ それはいつ頃だったか、私がNへ行ってはじめての満月の晩です。私は病気の故でその頃夜がどうしても眠れないのでした。その晩もとうとう寝床を起きてしまいまして、幸い月夜でもあり、旅館を出て、錯落とした松樹の影を踏みながら砂浜へ出て行きました・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・彼女の身内を貫いて、丁度満月の時、海の真中からゆらぎ出す潮のように、新たな、云うに云われない感覚が、流れました。スバーは、我と我身を顧みました。自分に問をかけても見ました、が、合点の行く答えは、何処からも来ません。 或る満月の晩おそく、・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 夏の月が、その夜は満月でしたが、その月光が雨戸の破れ目から細い銀線になって四、五本、蚊帳の中にさし込んで来て、夫の痩せたはだかの胸に当っていました。「でも、お痩せになりましたわ。」 私も、笑って、冗談めかしてそう言って、床の上・・・ 太宰治 「おさん」
・・・霜がおりて、輪廓のはっきりした冷い満月が出ていた。僕たちはしばらくだまって歩いた。「昨年の暮から、またこっちへ来ましたのでございますよ。」怒ったような眼つきでまっすぐを見ながら言った。「それは。」僕にはほかに言いようがなかったのであ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・やがて夜になると、輪郭の滲んだ満月が中空に浮び、洞庭湖はただ白く茫として空と水の境が無く、岸の平沙は昼のように明るく柳の枝は湖水の靄を含んで重く垂れ、遠くに見える桃畑の万朶の花は霰に似て、微風が時折、天地の溜息の如く通過し、いかにも静かな春・・・ 太宰治 「竹青」
・・・芝の満月。天沼の蜩。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。思い出の暗い花が、ぱらぱら躍って、整理は至難であった。また、無理にこさえて八景にまとめるのも、げびた事だと思った。そのうちに私は、この春と夏、更に二景を見つけて・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 知っていながらその告白を強いる。なんといういんけんな刑罰であろう。 満月の宵。光っては崩れ、うねっては崩れ、逆巻き、のた打つ浪のなかで互いに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、た・・・ 太宰治 「葉」
・・・まんまるいまるをかいて、それを真黄いろのクレオンでもって、ていねいに塗りつぶし、満月だよ、と教えてやる。女は、幽かな水色の、タオルの寝巻を着て、藤の花模様の伊達巻をしめる。客人は、それを語ってから、こんどは、私の女の問いただした。問われるが・・・ 太宰治 「雌に就いて」
出典:青空文庫