・・・男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳な二十七八の若者で、花色裏の盲縞の着物に、同じ盲縞の羽織の襟を洩れて、印譜散らしの渋い緞子の裏、一本筋の幅の詰まった紺博多の帯に鉄鎖を絡ませて、胡座を掻いた虚脛の溢み出るのを気にしては、着物の裾でくるみくる・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・部屋のどこからも空気の洩れるところがないということが、ますます息苦しく胸をしめつけた。明けはなたれた窓にあこがれた。いきなりシリウス星がきらめいた。私ははっと眼をあけた。蜘蛛の眼がキラキラ閃光を放って、じっとこちらを見ているように思った。夜・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 途中にあるバラックから灯が洩れ、ラジオの歌が聴こえていた。「あ、ラジオが聴こえてる」 と、ミネ子は立ち停った。歌は「荒城の月」だった。 ミネ子のつきあいで聴いているうちに、赤井はふと、「聴いたような声やな」 と、さ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ と云おうとしたが、ただ便ない呻声が乾付いた唇を漏れたばかり。「やッ! こりゃ活きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」 瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注入れられたよう・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹に風が黒く渡る。と、やがて眼近い夾竹桃は深い夜のなかで揺れはじめるのであった。喬はただ凝視っている。――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・草の上に腰から上が出て、その立てた膝に画板が寄掛けてある、そして川柳の影が後から彼の全身を被い、ただその白い顔の辺から肩先へかけて楊を洩れた薄い光が穏かに落ちている。これは面白ろい、彼奴を写してやろうと、自分はそのまま其処に腰を下して、志村・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・その歯の隙間から唸る声が漏れていた。看護長の苦々しげな笑いに気がつく余裕さえ上等兵には無いようだった。「自分がうるさいから叱っているんだ。」と栗本は考えた。「俺等のためなんど思っても呉れやせんのだ! どうしてこんなところへやってきたんだ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・なお黙ってはいたが、コックリと点頭して是認した彼の眼の中には露が潤んで、折から真赤に夕焼けした空の光りが華はなばなしく明るく落ちて、その薄汚い頬被りの手拭、その下から少し洩れている額のぼうぼう生えの髪さき、垢じみた赭い顔、それらのすべてを無・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・あのあたりの家はみな暖かい巣のような家であって、明るい人懐かしげな窓の奥からは折々面白げに外を見ている女の首が覗いたり、または清い苦労のなさそうな子供の笑声が洩れるのであった。老人はそういう家を一軒一軒心配げな、物を試すような、熱のある目で・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・まさか、戸石君は、扇子を袴のうしろに差して来たりなんかはしなかったけれども、陽気な美男子だった事は、やはり例に漏れなかった。戸石君はいつか、しみじみ私に向って述懐した事がある。「顔が綺麗だって事は、一つの不幸ですね」 私は噴き出した・・・ 太宰治 「散華」
出典:青空文庫