・・・始めからこれを尋ねようと思立って杖を曳いたのではない。漫歩の途次、思いかけずその処に行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思立って尋ねたよりも遥に深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫たる暮烟につつ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・社会欄にさしはさまれて、今日などは島崎藤村が昔ながら住う飯倉の街を漫歩して、魚やの××君などと撮した写真をのせている。それぞれに写真にも工夫があって面白く見るのであるが、数日前、女である私の眼に映って心にまで或る痛みをもって焼きついた東京ハ・・・ 宮本百合子 「昨今の話題を」
・・・ のどかな漫歩者の上にも、午後の日は段々傾いて来る。 明るく西日のさす横通りで、壁に影を印しながら赤や碧の風船玉を売っていた小さい屋台も見えなくなった。何処からとなく靄のように、霧のように夕暮が迫って来た。 舗道に人通りがぐ・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・ 腕を組んで漫歩する紳士が、枝に止まった小鳥のように目白押しする彼等の、その真正面で、ペッと地面に不作法な唾を吐く―― 其でも彼等は体を揺って、ハハと笑う、ハハと笑う…… 皆が侮る黒坊、泣いても笑っても、白くは成れない黒坊…・・・ 宮本百合子 「一粒の粟」
・・・久米正雄氏が嘗て美しい夫人を伴ってアメリカ人と肩を並べ悠々漫歩したパリのヴルールには、きょう、その時分にはなかった種類の示威行列がねっているそうである。与謝野晶子、藤村などが詩を語って、思い出の中にまざまざ生かしているであろうカフェー・リラ・・・ 宮本百合子 「「迷いの末は」」
・・・ある主観的な点の強調からの恋愛論やその反駁、さもなければ、筆者自身が大いに自身の趣好にしたがって恋愛的雰囲気のうちに心愉しく漫歩して、あの小路、この細道をもと、煙草をくゆらすように連綿とみずから味っている恋愛論である。 私は一人の読者と・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
出典:青空文庫