・・・何処からともなく便所の臭気が漲る。 衛生を重ずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事様でもお泊りになるべきその土地最上等の旅館へ上って大に茶代を奮発せねばならぬ。単に茶代の奮発だけで済む事なら大した苦痛ではないが、一度び奮・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・物の憐れの胸に漲るは、鎖せる雲の自ら晴れて、麗かなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋めて千里の外に暖かき光りをひく。明かなる君が眉目にはたと行き逢える今の思は、坑を出でて天下の春風に吹かれたるが如きを――言葉さえ交わさず、あすの・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・水を漲るほど入れてやった。文鳥は一本足のまま長らく留り木の上を動かなかった。午飯を食ってから、三重吉に手紙を書こうと思って、二三行書き出すと、文鳥がちちと鳴いた。自分は手紙の筆を留めた。文鳥がまたちちと鳴いた。出て見たら粟も水もだいぶん減っ・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 斯うした種々の気持は皆一まとめになって物音もしない熱気の漲る病人の小部屋にながれて行くのであった。わびしそうな姿をして、口をもきかずに息子のわきについて居る父親は、自分の子をつれて行く黒馬車を待ちながら堪えられぬ怖れに迫られて居る様に・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・ この評伝の美しさ、漲る誠意と、その土台をなして実に活々と確かに歴史の現実の諸関係をつかみ出している科学者としての方法は、ミケルアンジェロの芸術の本質をはっきりと描き出しているのみならず、当時の複雑きわまる社会と芸術との活きた画が立体的・・・ 宮本百合子 「現代の心をこめて」
・・・ 銃後に漲る英雄的な気分の何割かが、避けがたい必要に求められて生命の危険を賭しつつある若い男、あるいは中年の男たちの感情へまで切実に迫って行っているであろうか。 ある気分に煽られている自分の心持に知らず知らず乗っていて、しかもその浅・・・ 宮本百合子 「祭日ならざる日々」
・・・オペレットの事だから筋は割合他愛の無い物だし、歌がどっさり這入り陽気にやっているらしくは見えるが全体に漲るユーモアまたは恋愛的な場面の表現の仕方などには、これまでのソヴェトの劇場の何処もが把握する事が出来なかった新鮮な新ソヴェト気質が輝き渡・・・ 宮本百合子 「ソヴェト「劇場労働青年」」
・・・そしてそのういういしく漲るエネルギーによって人間生活のありかたが改めて知覚され、探究され必ず何かの新しい可能もそこに芽生えていて、社会のうちに行為されてゆく。このことは、限りなく美しく、厳粛な事実だと思う。言葉を加えて云えば、わたしたちが二・・・ 宮本百合子 「小さい婦人たちの発言について」
・・・ だが、この会場に漲る活気と画題のまやかしでない現実性とは、実に興味深いものがある。第一室にある数枚の絵を見ただけで自分は感じた、――日本のプロ美術家はやっぱりうまい! と。 世界の一般プロレタリア芸術運動は、いつでもすでに革命・・・ 宮本百合子 「プロレタリア美術展を観る」
・・・オーギュスト・ロダンが、無比の天才で、精神にも肉体にも力溢れ漲る女性を再誕させたことは誰でも知っている。 それに対して、女性の芸術家は、どんな男性を、彼女等の作品の中に産み出しているだろうか。美術史に遺っている著名な女流画家――ロザ・ボ・・・ 宮本百合子 「わからないこと」
出典:青空文庫