・・・ 雨などが降りくらして悒鬱な気分が家の中に漲る日などに、どうかするとお前たちの一人が黙って私の書斎に這入って来る。そして一言パパといったぎりで、私の膝によりかかったまましくしくと泣き出してしまう。ああ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求す・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 蹄を流れて雲が漲る。…… 身を投じた紫玉の助かっていたのは、霊沢金水の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と称うる練兵場。 紫玉が、ただ沈んだ水底と思ったのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であった。―― 雨を得た市民が、白身・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・私も、その日ほど夥しいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会に漲るのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。子供のうちから大好きなんだけれど、これに気のついたのは、――うっかりじゃないか――この八九年以来なんだが、月はかわりませ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・能く見ると余り好い男振ではなかったが、この“Sneer”が髯のない細面に漲ると俄に活き活きと引立って来て、人に由ては小憎らしくも思い、気障にも見えたろうが、緑雨の千両は実にこの“Sneer”であった。ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・一方にはきわめて消極的な涙もろい意気地ない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強く横たわった。 疼痛は波のように押し寄せては引き、引いては押し寄せる。押し寄せるたびに脣を噛み、歯をくいしばり、脚を両・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・枕につけた片方の耳の奧では、動脈の漲る音が高く明らかに鳴っている。 また肺炎かと思う。これまで既に二度、同じ病気に罹った時分の事も思い出す。始めての時はまだ小学時代の事で、大方の事は忘れて仕舞った。病気の苦しみなどはまるきり忘れてしまっ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・飲んでみると名状の出来ぬ芳烈な香気が鼻と咽喉を通じて全身に漲るのであった。何というものかと聞くと、レモン油というものだと教えられた。今のレモン・エッセンスであったのである。明治十七、八年頃の片田舎の裁判所の書記生にしては実に驚くべきハイカラ・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・大都市の冬に特有な薄い夜霧のどん底に溢れ漲る五彩の照明の交錯の中をただ夢のような心持で走っていると、これが自分の現在住んでいる東京の中とは思えなくなって、どこかまるで知らぬ異郷の夜の街をただ一人こうして行方も知らず走っているような気がして来・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・近所のお内儀さんなどが通りがかりに児をあやすと、嬉しそうな色が父親の柔和な顔に漲る。女房は店で団扇をつかいながら楽しげにこの様を見ている。涼しい風は店の灯を吹き、軒に吊した籠や箒やランプの笠を吹き、見て過ぐる自分の胸にも吹き入る。 自分・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・sme の根本の力を私に授けてくれたものは、仏蘭西人が Sarah Bernhardt に対し伊太利亜人が Eleonora Duse に対するように、坂東美津江や常磐津金蔵を崇拝した当時の若衆の溢れ漲る熱情の感化に外ならない。哥沢節を産ん・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫