・・・その夜、火消したちは次郎兵衛の新居にぎっしりつまって祝い酒を呑み、ひとりずつ順々に隠し芸をして夜を更しいよいよ翌朝になってやっとおしまいのひとりが二枚の皿の手品をやって皆の泥酔と熟睡の眼をごまかし或る一隅からのぱちぱちという喝采でもって報い・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 箪笥や鏡台なんか並んでいる店の方では、昨夜お座敷の帰りが遅かったとみえて、女が二人まだいぎたなく熟睡していて、一人肥っちょうの銀杏返しが、根からがっくり崩れたようになって、肉づいた両手が捲れた掻巻を抱えこむようにしていた。 お絹は・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ぐったりとなった憐れな赤犬は熟睡した小児が母の手に衣物を脱がされるように四つの足からそうして背部へと皮がむかれた。致命の打撲傷を受けた頸のあたりはもう黒く血が凝って居た。裸にされた犬は白い歯を食いしばって目がぎろぎろとして居た。毛皮は尾から・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・昨夜も大勢来て居った友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節は帰ってしもうて余らの眠りに就たのは一時頃であったが、今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同しであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか、精神は非常に安穏であった。顔は・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・ 眠りなおして八時過に起ても、私は何となく頭が重苦しいのを感じた。熟睡して醒めた後誰でも感じる、暖かに神経の末端まで充実した心持。それがなく、何だか詰らない、疲労の後味とでも云うようなものが、こびりついて居るのである。 新奇なこ・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ 家に帰って空腹に美味な晩食をとり、湯を浴び、熟睡して、更に新鮮な月曜日を迎えるのです。 勿論、右のようなのは生活の大体の筋書で、例外も起れば、風雲啻ならないような場合もありましょう。けれども、このR氏夫妻のみならず、真個におのおの・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ 自分は、出来る丈平静に、又、八畳の方に眠って居る老人の熟睡をも妨げないようにして、林町で話して来たこと、自分の考え等を述べた。 Aにしろ、もっとよい状態にありたいと云う心は強い。彼はしきりに、今、急にそんなことをしても、真実の理解・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・ 夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞をかけかねていたのである。 熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・今はかほどまでに熟睡して、さばれ、いざ呼び起そう」 忍藻の部屋の襖を明けて母ははッとおどろいた。承塵にあッた薙刀も、床にあッたくさりかたびらも、無論三郎がくれた匕首もあたりには影もない。「すわやおれがぬかッたよ。常より物に凝るならい……・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫