・・・ あがりがまちのむこうには、荷馬車稼業の父親が、この春仕事さきで大怪我をしてからというもの、ねたきりでいたし、そばにはまだ乳のみ児の妹がねかしてあった。母親にすれば、倅の室の隅においている小さい本箱と、ちかごろときどき東京からくる手紙が・・・ 徳永直 「白い道」
・・・恐る恐る訊く私が知識の若芽を乳母はいろいろな迷信の鋏で切摘んだ。父親は云う事を聴かないと、家を追出して古井戸の柳へ縛りつけるぞと怒鳴って、爛たる児童の天真を損う事をば顧みなかった。ああ、恐しい幼少の記念。十歳を越えて猶、夜中一人で、厠に行く・・・ 永井荷風 「狐」
・・・共に住むは二人の兄と眉さえ白き父親のみ。「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。「北の方なる仕合に参らんと、これまでは鞭って追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえ岐れたるを。――乗り捨てし馬も・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ けれども、自分の父親が、そんな風にして死ぬものとは思わなかった。だのに、今、二人の十になる子供は、その父親の首へしがみついて、夕食の席へ連れ帰ろうとでもするように起そうとして努力していた。 が、秋山も小林も、決して、その逞しい足を・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・すると、父親ドンコが頭を指にぶっつけて来て押しのけようとする。それでも、なお指を近づけようとしたら、パクリとかみつかれた。こういうけなげな姿を見ては、釣る気にならない。食いしん坊だから、糸をたれさえすれば釣れるが、こういうときには遠慮するの・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・ かげろうはお茶をとろうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、「あわれやむすめ、父親が、 旅で果てたと聞いたなら」と哀れな声で歌い出しました。「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云いました。するとか・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・夫と妻の財産に対する権利の平等、刑法上で婦人にばかり姦通罪がきびしかった点も改正され、離婚に対する権利の平等、母親の子供に対する親権も父親と等しいものに認められるようになってきている。これは日本でつくられた憲法、民法、刑法上での大革命である・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・実に忍藻はこの老女の実子で、父親は秩父民部とて前回武蔵野を旅行していた旅人の中の年を取った方だ。そして旅人の若い方はすなわち世良田三郎で、母親の話でも大抵わかるが、忍藻にはすなわち夫だ。 この三郎の父親は新田義貞の馬の口取りで藤島の合戦・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・そこで二ヶ月もかかって漸く彫刻仕上げたとき、父親に見つけられて了った。父は子の造ったその仮面を見ると実に感心をしたのである。「これはよく出来とる。」 そこで、子は下駄屋にされて了った。これは夢が運命を支配した話。 佐藤・・・ 横光利一 「夢もろもろ」
・・・――何というばかな無慈悲な父親でしょう。子供の不機嫌は自分が原因をなしていたのです。子供の正直な心は無心に父親の態度を非難していたのです。大きい愛について考えていた父親は、この小さい透明な心をさえも暖めてやることができませんでした。 私・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫