・・・僧房の中にもいる。牢獄の中にもいる。墓地にさえ在る。これを、見て見ぬふりをしては、いけない。はっきり向き直って、おのれのヴァニティと対談してみるがいい。私は、人の虚栄を非難しようとは思っていない。ただ、おのれのヴァニティを鏡にうつしてよく見・・・ 太宰治 「答案落第」
・・・この病、この脚気、たといこの病は治ったにしても戦場は大なる牢獄である。いかにもがいても焦ってもこの大なる牢獄から脱することはできぬ。得利寺で戦死した兵士がその以前かれに向かって 「どうせ遁れられぬ穴だ。思い切りよく死ぬサ」と言ったことを・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・拷問の後にほうり込まれた牢獄の中で眼前に迫る生死の境に臨んでいながらばかげた油虫の競走をやらせたりするのでも決してむだな插話でなくて、この活劇を生かす上においてきわめて重要な「俳諧」であると思われる。最後のトニカを響かせる準備の導音のような・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・重兵衛さんは自分の心にファンタジーの翼を授け、自分の現実世界の可能性の牢獄を爆破してくれた人であった。 重兵衛さんの次男で自分よりは一つ二つ年上の亀さんからも実に色々のことを教わった。彼はたしかに一種の天才であったらしい。何をさせても器・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・彼の眼は牢獄の壁で近視になっていた。彼が、そのまま、天国のように眺める、山や海の上の生活にも、絶えざる闘争があり、絶えざる拷問があったが、彼はそれを見ることが出来なかった。 彼は彼一流の方法で、やっつけるだけであった。 夜の二時・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ブルジョア、プロレタリア―― 私はプロレタリアとして、よりよく生きるために、ないしはプロレタリアを失くするための運動のために、牢獄にある。 風と、光とは私から奪われている。 いつも空腹である。 顔は監獄色と称する土色である。・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・一人のためにはその家は喜見城で、一人のためには牢獄だ。一人のためには輿は乗るもので、一人のためには輿は肩から血を出すものだ。一人のためには犬は庭へ出て輪を潜って飛ばせて見て楽むもので、一人のためには食物をやって介抱をするものだ。僕の魂の生み・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・そんなに日本中が牢獄的であった。 わたしはその頃の日本のすべての人民の苦痛と精神も肉体も不具にされていた日の記念として、きょうではおかしく意味の不明瞭に書かれている文章のまま、傷ついている姿のまま、作品をのこしておく。愛する日本が、また・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第五巻)」
・・・精根つくして自分で米をつくっている農民が、強制供出に応じなければ、刑にふれて牢獄に入れられることになった。供出したがらないには、農業会、統制会、その他の全配給機構への農民の不信任があるのだし、第一には、これまで俺たちは騙されていた、という支・・・ 宮本百合子 「現実の必要」
・・・人間の智慧がこしらえられるものは、武器と牢獄とであり、人々の間に響く声といえば号令だとしか考えなかった。ましてや、人民解放のために生涯を捧げた解放者の像などはない。 明治末期から大正にかけて、日本のブルジョア・インテリゲンツィアの文学の・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
出典:青空文庫