・・・ 窓の机に向って、ゆうがた、独り物案じに沈み、見るともなしにそとをながめていると、しばらく忘れていたいちじくの樹が、大きなみずみずした青葉と結んでいる果とをもって、僕の労れた目を醒まし、労れた心を導いて、家のことを思い出させた。東京へ帰・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ けれども母と叔母はさしむかいでいても決して笑い転げるようなことはありません、二人とも言葉の少ない、物案じ顔の、色つやの悪い女でしたが、何か優しい低い声でひそひそ話し合っていました。一度は母が泣き顔をしている傍で叔母が涙ぐんでいるのを見・・・ 国木田独歩 「女難」
上 夏の初、月色街に満つる夜の十時ごろ、カラコロと鼻緒のゆるそうな吾妻下駄の音高く、芝琴平社の後のお濠ばたを十八ばかりの少女、赤坂の方から物案じそうに首をうなだれて来る。 薄闇い狭いぬけろじの車止・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・ 年は二十を越ゆるようやく三つ四つ、背高く肉やせたり、顔だち凜々しく人柄も順良に見ゆれどいつも物案じ顔に道ゆくを、出であうこの地の人々は病める人ぞと判じいたり。さればまた別荘に独り住むもその故ぞと深くは怪しまざりき。終日家にのみ閉じこも・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・らお伺い致します、と申し上げまして、その中野のお店の場所をくわしく聞き、無理にお二人にご承諾をねがいまして、その夜はそのままでひとまず引きとっていただき、それから、寒い六畳間のまんなかに、ひとり坐って物案じいたしましたが、べつだん何のいい工・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・己はまた詰まらなくくよくよと物案じをし出したな。ほんにほんに人の世には種々な物事が出来て来て、譬えば変った子供が生れるような物であるのに、己はただ徒に疲れてしまって、このまま寝てしまわねばならぬのか。(家来ランプを点して持ち来り、置いて帰り・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ その晩十時過ぎに、もう内中のものが寐てしまってから、己は物案じをしながら、薄暗い庭を歩いて、凪いだ海の鈍い波の音を、ぼんやりして聞いていた。その時己の目に明りが見えた。それはエルリングの家から射していたのである。 己は直ぐにその明・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫