・・・が、急にふり返ると、やはりただ幕ばかりが、懶そうにだらりと下っている。そんな事を繰り返している内に、僕はだんだん酒を飲むのが、妙につまらなくなって来たから、何枚かの銭を抛り出すと、そうそうまた舟へ帰って来た。「ところがその晩舟の中に、独・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・ 道祖神は、ちょいと語を切って、種々たる黄髪の頭を、懶げに傾けながら不相変呟くような、かすかな声で、「清くて読み奉らるる時には、上は梵天帝釈より下は恒河沙の諸仏菩薩まで、悉く聴聞せらるるものでござる。よって翁は下賤の悲しさに、御身近・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下していた小娘の顔を一瞥した。 それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・これを見た新蔵は、始めて浮かぬ顔色の底に、かすかな情熱を動かしながら、それでもまだ懶げな最初の調子を失わないで、「だがね、君、あの婆に占を見て貰いに来る相場師だって、鍵惣とかのほかにもいるだろうじゃないか。」と面倒臭そうに答えましたが、その・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ところが、それほど銭湯好きの彼が何かの拍子に、ふと物臭さの惰性にとりつかれると、もう十日も二十日も入浴しなくなる。からだを動かすとプンといやな臭いがするくらい、異様に垢じみて来るのだが、存外苦にしない。これがおれの生活の臭いだと一寸惹かれて・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・その麓に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった。 私は眼を溪の方の眺めへ移し・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ その仲間と云うのは、ゴサインと云う家の末息子で、プラタプと云う懶け者でした。彼の両親は、長い間散々種々やって見た揚句、到頭、彼もいつかは一人前の男に成るだろうと云う希望を、すっかり棄てて仕舞いました。一体、のらくら者と云うものは、家の・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 以上は新型式の勃興に惰眠をさまされた懶翁のいまださめ切らぬ目をこすりながらの感想を直写したままである。あえて読者の叱正を祈る次第である。 寺田寅彦 「俳句の型式とその進化」
・・・しかし疎懶なるわたくしは今日の所いまだその蒐集に着手したわけではない。折々の散歩から家に帰った後唯机辺に散乱している二、三の雑著を見て足れりとしている。これら座右の乱帙中に風俗画報社の明治三十一年に刊行した『新撰東京名所図会』なるものがある・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・頬白が桑の枝から枝を渡って懶げに飛ぶのを見ると赤は又立ちあがって吠える。桑畑から田から堀の岸を頬白が向の岸へ飛んでなくなるまでは吠える。そうして赤は主人を見失うのである。そういう時には尻尾を脚の間へ曲げこんで首を垂れて極めて小刻みに帰って行・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫