・・・と、何処の女であるか知らぬが近頃際会したという或る女の身の上咄をして、「境涯が境涯だから人にも賤しめられ侮られているが、世間を呑込んで少しも疑懼しない気象と、人情の機微に通ずる貴い同情と――女学校の教育では決して得られないものを持ってる。こ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・の木彫に出会って、これが自分で捌き得る人物だろうかと、大に疑懼の念を抱かざるを得なくなり、又今更に艱苦にぶつかったのであった。 主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷透の批評の湧く余地が生じたか、「そちが身を捨て・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・』 疑懼のカリギュラは、くすと笑った。よし、よし。罪一等を減じてあげよう。遠島じゃ。ドミチウスを大事にするがよい。 アグリパイナは、ネロと共に艦に乗せられ、南海の一孤島に流された。 単調の日が続いた。ネロは、島の牛の乳を飲み、ま・・・ 太宰治 「古典風」
・・・という疑懼が、心の隅に残っていた。 けれども、あの「死んで下さい」というお便りに接して、胸の障子が一斉にからりと取り払われ、一陣の涼風が颯っと吹き抜ける感じがした。 うれしかった。よく言ってくれたと思った。大出来の言葉だと思った。戦・・・ 太宰治 「散華」
・・・あのマドレエヌに逢ってみたらイソダンで感じたように楽しい疑懼に伴う熱烈な欲望が今一度味われはすまいか。本当にあのマドレエヌが昔のままで少しも変らずにいてくれればいい。しかし自分はどうだろうか。なに、それは別に心配しなくてもいい。もちろん髪の・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・しかし心の奥には、こうして暮らしていて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼が潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出して来て穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾の上に頭をもたげて来る・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・ 文芸の世界は疑懼の世界となった。 この時パアシイ族のあるものが「危険なる洋書」という語を発明した。 危険なる洋書が自然主義を媒介した。危険なる洋書が社会主義を媒介した。翻訳をするものは、そのまま危険物の受売をするのである。創作・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・天分の疑懼はしばらくの間私の心を苦しめなくなる。 天才はその悲痛な運命の愛によってのみ非凡であった。彼らは多くを与えられた事よりも、むしろ多くを最もよく生かした事において偉大であった。私はその驚嘆すべき誠実のゆえにのみ彼らの前にひざまず・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫