・・・彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕までやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のようにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 綿貫博士がそばで皮肉を言わないだけがまだしも、先生がいると問答がことさらにこみ入る。「わかったとも、大わかりだ、」と楠公の社に建てられて、ポーツマウス一件のために神戸市中をひきずられたという何侯爵の銅像を作った名誉の彫刻家が、子供・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・ 彼は、皮肉に意地悪く云った。「犯人はこいつにきまったんだ。何も云うこたないじゃないか。」 老人の左腕を引っぱっている上等兵が、うしろへ向いて云った。「なあに、こんな百姓爺さんが偽札なんぞようこしらえるもんか! 何かの間違い・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 奥さんは聞かなくても可いことを鑿って聞いたという顔付で、やや皮肉に笑って、復た子供と一緒に鶏の方を見た。淡黄な色の雛は幾羽となく母鶏の羽翅に隠れた。 先生が庭を廻って来た。町の方に見つけた借家へ案内しよう、という先生に随いて、高瀬・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・この意識の消しがたいがために、義務道徳、理想道徳の神聖の上にも、知識はその皮肉な疑いを加えるに躊躇しない、いわく、結局は自己の生を愛する心の変形でないかと。 かようにして、私の知識は普通道徳を一の諦めとして成就させる。けれども同時にその・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・病苦、人がそれを信じて呉れない皮肉な病苦、これをどうする。そうして、肉親。「ねえ、おまえは、やっぱり私の肉親に敗れたのだね。どうも、そうらしい。」 かず枝は、雑誌から眼を離さず、口早に答えた。「そうよ、あたしは、どうせ気にいられ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 編集長がまた皮肉な男で、人を冷やかすことをなんとも思わぬ。骨折って美文でも書くと、杉田君、またおのろけが出ましたねと突っ込む。なんぞというと、少女を持ち出して笑われる。で、おりおりはむっとして、己は子供じゃない、三十七だ、人をばかにす・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・どこか皮肉な、今にも例の人を笑わせる顔をしそうなところがある。また最近にタイムス週刊の画報に出た、彼がキングス・カレッジで講演をしている横顔もちょっと変っている。顔面に対してかなり大きな角度をして突き出た三角形の大きな鼻が眼に付く。 ア・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・その中には見たこともない皮肉なものもあった。鉄で作った金平糖のようなえらの八方へ出た星を、いくらか歪みなりにできた長味のある輪から抜き取るのや、象牙でこしらえた小さい角棒の組合せから、糸で繋いだ、それよりも小さい砕片を潜らせるのや、いろんな・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・五尺たらずで、胃病もちで、しなびた小さい顔にいつも鼻じわよせながら、ニヤリニヤリと皮肉な笑いをうかべている男だった。「ホホン、そりゃええ――」 この「ホホン」というのが小野の得意であった。小男だから、いつも相手をすくいあげるようにし・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫