・・・かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに思いぬ。 顔は隔たりてよくも見えねど、細面の色は優れて白く、すらりとしたる立姿はさらに見よげなり。心ともなくこなたを打ち仰ぎて、しきりにわれを見る人のあるにはッとしたるごとく、急がわしく室の中に姿を隠しぬ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 文は短けれど読みおわりて繰り返す時わが手振るい涙たばしり落ちぬ、今貴嬢にこの文を写して送らん要あらず、ただ二郎は今朝夜明けぬ先に品川なる船に乗り込みて直ちに出帆せりといわば足りなん。この身にはもはや要なき品なれば君がもとに届けぬ、君い・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青年学生が如何に多いことであろう。しかしすぐれた文学者には倫理学的教養はあるものである。人・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 空腹のとき、肉や刺身を食うと、それが直ちに、自分の血となり肉となるような感じがする。読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえって・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・紹介者に連れて行って貰って、些少の束修――金員でも品物でもを献納して、そして叩頭して御願い申せば、直ちに其の日から生徒になれた訳で、例の世話焼をして呉れる先輩が宿所姓名を登門簿へ記入する、それで入学は済んだ訳なのです。銘々勝手な事を読んで行・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ 死は古えから悼ましき者、悲しき者とせられて居る、左れど是は唯だ其親愛し、尊敬し、若くは信頼したる人を失える生存者に取って、悼ましく悲しきのみである、三魂、六魂一空に帰し、感覚も記憶も直ちに消滅し去るべき死者其人に取っては、何の悼みも悲・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・大なる石は虚空より唸りの風音をたて隕石のごとく速かに落下し来り直ちに男女を打ちひしぎ候。小なるものは天空たかく舞いあがり、大虚を二三日とびさまよひ候。」 私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感して戦慄した。私のこれまでの生涯に於・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・という声が直ちにこの人の目をおおい隠して、眼前の絵の代わりに自分の頭の中に沈着して黴のはえた自分の寺の絵の像のみが照らし出される。たとえその頭の中の絵がいかに立派でもこれでは困る。手を触れるものがみんな黄金になるのでは飢え死にするほかはない・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ われわれの生活は遠からず西洋のように、殊に亜米利加の都会のように変化するものたる事は誰が眼にも直ちに想像される事である。然らばこの問題を逆にして試に東京の外観が遠からずして全く改革された暁には、如何なる方面、如何なる隠れた処に、旧日本・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・彼は家に帰れば直ちにそれを発見したのである。彼は忘れて出たのである。其夜彼等が会合したのは全く悪戯のためであった。悪戯は更に彼等の仲間にも行われざるを得なかった。「そりゃ畑へ落して来たぞ」 他の一人がいった。「どこらだんべ」・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫