・・・私可怖かったわ、あの呪う様な眼で、凝乎と其兵士をお睨みでした顔と云ったら。『決して後の事心配しなさるでねえよ。私何様思いをしても、阿母や此児に餓じい目を見せる事でねえから、安心して行きなさるが可えよ。』 良人の其人も目は泣きながら、・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・例えば隣家は頻りに繁昌して財産も豊なるに、我家は貧乏の上に不仕合のみ打続く、羨ましきことなり憎らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・モラトリアムは物価との睨み合わせで、はじめて本当にものを云うのである。ところが、三月に入ってから、あらゆる物価は騰げられた。配給の米、醤油、そういう基本になる生活物資が約三倍になった。省線の二十銭区間は六十銭となり、四十銭で勤められた同じ距・・・ 宮本百合子 「現実の必要」
・・・ 髪をこってりと櫛目だてて分け、安物だがズボンの折目はきっちり立った荒い縞背広を着たその男は、黒い四角い顔で私を睨み、「そこへかけて」 顎で椅子をしゃくった。自分は腰をおろした。縞背広は向い合う場所にかけ、「警視庁から来た者・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 何故自分が行ってそんな悪い人達を睨みながら大切にお叔父ちゃんを連れて来て上げなかったろう。 私は自分自身の手ぬかりの大いさに苦しめられると共に「悪い大人共」に対する憎しみで体が震える様であった。 そして彼に対する大人らしい同情・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・Y、天を睨み「これだから貧棒旅行はいやさ」と歎じるが、やむを得ず。自動車をよんで、大浦天主堂に行く。坂路の登り口に門番があり、爺さんが居る。これも、永山氏の御好意による名刺を通じると、爺さん「日本のお方か、西洋のお方か、どちらへ・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・相手を睨み据えながら、幸雄は手探りで素早くステッキを取ろうとした。ステッキはもうそこにはなかった。「畜生!」 いかにも口惜しげで、石川の心に同情が湧いた。幸雄の二の腕を背広の男が捉えた。「何する!」「おとなしく君が病院へさえ・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であッた。実に今は住む百万の蒼生草,実に昔は生えていた億万の生草。北は荒川から南は玉川まで、嘘・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・に、何寸ほどの鯰と鰻がいるとか、どこの桑の実には蟻がたかってどこの実よりも甘味いとか、どこの藪の幾本目の竹の節と、またそこから幾本目の竹の節とが寸法が揃っているとか、いつの間にか、そんなことにまで私は睨みをきかすようになったりした。 し・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫