・・・墓は常に後にしなければならぬ。幸徳らは政治上に謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓に縋りついてはならぬ。「もし爾の右眼爾を礙かさば抽出してこれをすてよ」。愛別、離苦、打克たねばならぬ。我らは苦痛を忍んで解脱せねばな・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 先生はこういう風にそれほど故郷を慕う様子もなく、あながち日本を嫌う気色もなく、自分の性格とは容れにくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時代の世態が、周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮き上って、自分をその中心に陥落せしめ・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・此にも内容なき形式は空虚である。人は真実在は不可知的というかも知らない。もし然らば、我々の生命も単に現象的、夢幻的と考えるのほかない。そこからは、死生を賭する如き真摯なる信念は出て来ないであろう。実在は我々の自己の存在を離れたものではない。・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・貯えた蜜柑の皮に光沢があって、皮と肉との間に空虚のあるやつは中の肉の乾びておることが多い。皮がしなびて皺がよっているようなやつは必ず汁が多くて旨い。○くだものの嗜好 菓物は淡泊なものであるから普通に嫌いという人は少ないが、日本人ではバナ・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・さよなら、えい、畜生、その骨汁は、空虚だったのか。」 タネリは、ほんとうにさびしくなって、また藤の蔓を一つまみ、噛みながら、もいちど森を見ましたら、いつの間にか森の前に、顔の大きな犬神みたいなものが、片っ方の手をふところに入れて、山梨の・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・の中に佃としてかかれているひとと生活していて、夫婦というもの毎日の生きかたの目的のわからない空虚さに激しく苦しみもだえていた。そのひととはなれていられず、それならばと云ってその顔を見ていると分別を失って苦しさにせき上げて来るような状態だった・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・一つの机の上を綺麗に空虚にして置いて、その上へその折々の急ぐ為事を持って行く。そしてその急ぐ為事が片付くと、すぐに今一つの机の上に載せてある物をそのあとへ持ち出す。この載せてある物はいつも多い。堆く積んである。それは緩急によって畳ねて、比較・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 彼女は空虚の空間を押しつけるように両手を上げた。「陛下、暫くでございます。侍医をお呼びいたします」 ナポレオンは妃の腕を掴んだ。彼は黙って寝台の方へ引き返そうとした。「陛下、お赦しなされませ。御無理をなされますと、私はウィ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そして自分の周囲に広い黒い空虚のあるのを見てほっと溜息を衝いた。その明りが消えると、また気になるので、またマッチを摩る。そして空虚を見ては気を安めるのである。 また一本のマッチを摩ったのが、ぷすぷすといって燃え上がった時、隅の方でこんな・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・やがて私はだんだん心の空虚を感じて来て、ふと妻の方に眼をやりました。妻も眼を上げて黙って私を見ました。その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫