・・・人殺しをした瞬間に偶然机の上におかれてあった紙片の上の文字が、殺人者の脳に焼き付いたような印象となって残ったという話があるが、これに似た現象は存外きわめて普通なことであるかもしれない。幼時の記憶の断片にはたいてい何かしらそういう「光線」があ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ あるときどんな英語の本を読んだら宜かろうという余の問に応じて、先生は早速手近にある紙片に、十種ほどの書目を認めて余に与えられた。余は時を移さずその内の或物を読んだ。即座に手に入らなかったものは、機会を求めて得る度にこれを読んだ。どうし・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く人の如く、身を向けて戸口の方に三歩ばかり近寄る。眼は戸の真中を見ているが瞳孔に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急くか、厚い樫の扉を拳にて会釈なく夜陰に響け・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 町の名、番地を書いてある紙片を手にもって、曲り角を見上げては、右へ、また右へと静かな通りを進みました。 暫く行くと左側に「母と子の健康相談所」のカンバンの出た建物がある。その二軒ばかり先が「五月一日の子供の家」です。 もとは誰・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・その中から紙片を出して本に貼る。 ガラスの角ばったペン皿のとなりに置いて。ペン皿には御存知の赤い丸い球のクリーム入れがあって、太郎が二階へ来ると、私はいそいでそれをかくすの。握ったら可愛がってはなさないのです。ところがおばちゃんにしろ、・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・赤、黄、緑、紫、黒の紙片をはりつけた子供の為の本が棚わきに並べてある。それは毎週一度ずつ開かれる詮衡委員会が新刊児童文学につけた成績表である。 ――赤いのが一番いい部です。紫、黒のになると他の図書館へは買いません。緑のは、私共自身にはっ・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ こまかく折畳んだ紙片が肩越しに順ぐり送られてきた。最前列の女が席を立ってそれを舞台の上、演壇の下に出されてる投書受箱へ入れてきた。 ――タワーリシチ! 今夜盛大な第十回世界無産婦人デーの夕を持つことは実に愉快であります。何々区ソヴ・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ ゴム印をおし、番号を書いた紙片を貰って、さらにもう一枚ガラス戸をあけて、表階段をのぼって行った。 二階の壁に、絵入りのスモーリヌイ勤労者壁新聞が張り出してある。 スモーリヌイの外観は快活である。そのように内部も清潔で、白い。極・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ けれ共、段々彼方此方片附け出すと、泥足の跡のある着物だの、紙片れだのが発見された。 その中でも、最も皆を縮み上らせたのは、湯殿の化粧台のそばに落ちて居た一枚の「ぼろ」であった。 うす黄い、疎な木綿の二尺ほどの布は、何か包んで居・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・と、また梶は一句書きつけた紙片を盆に投げた。 日が落ちて部屋の灯が庭に射すころ、会の一人が隣席のものと囁き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣裾へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうし・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫