・・・彼女は現に僕の顔へ時々素早い目をやりながら、早口に譚と問答をし出した。けれども唖に変らない僕はこの時もやはりいつもの通り、唯二人の顔色を見比べているより外はなかった。「君はいつ長沙へ来たと尋くからね、おととい来たばかりだと返事をすると、・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・黍団子の勘定に素早い猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭の鈍い犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。 その上猿は腹が張ると、たちま・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・金三は先に立ったまま、麦と桑とに挟まれた畔をもう一度右へ曲りかけた。素早い良平はその途端に金三の脇を走り抜けた。が、三間と走らない内に、腹を立てたらしい金三の声は、たちまち彼を立止らせてしまった。「何だい、どこにあるか知ってもしない癖に・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・飢と素早いこと、さっさ、と片づけて、さ、もう一のし。 今度はね、大百姓……古い農家の玄関なし……土間の広い処へ入りましたがね、若い人の、ぴったり戸口へ寄った工合で、鍵のかかっていないことは分っています。こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・妙なもので、あのように鈍重に見えていても、ものを食う時には実に素早いそうで、静かに瞑想にふけっている時でも自分の頭の側に他の動物が来ると、パッと頭を曲げて食いつく、是がどうも実に素早いものだそうで、話に聞いてさえ興醒めがするくらいで、突如と・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 私は、ぎょっとしましたが、しいて平気を装って、「まあ、素早い。」「そこが、ピストル強盗よりも凄いところさ。」 その女のひとのために、内緒でお金の要る事があったのに違いないと私は思いました。「それじゃ、何を着ていらっしゃ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・としての歴史的地理的な研究は、まだまだ日本は、外国に及ばないようであるが、キリスト精神への理解は、素早いのである。 キリスト教の問題に限らず、このごろの日本人は、だんだん意気込んで来て、外国人の思想を、たいした事はないようだと、ひそひそ・・・ 太宰治 「世界的」
・・・それほど低く素早い言葉でした。「おひまでしたら、橋にいらして」 そう言って、かすかに笑い、すぐにまた澄まして花江さんは立ち去りました。 私は時計を見ました。二時すこし過ぎでした。それから五時まで、だらしない話ですが、私は何をして・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・鮎が、すっと泳ぎ寄って蚊針をつつき、ひらと身をひるがえして逃れ去る。素早いものだ、と佐野君は感心する。対岸には、紫陽花が咲いている。竹藪の中で、赤く咲いているのは夾竹桃らしい。眠くなって来た。「釣れますか?」女の声である。 もの憂げ・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・実に素早い。この祖父は、壮年の頃は横浜で、かなりの貿易商を営んでいたのである。令息の故新之助氏が、美術学校へ入学した時にも、少しも反対せぬばかりか、かえって身辺の者に誇ってさえいたというほどの豪傑である。としとって隠居してからでも、なかなか・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫