・・・「それは何か申した声に聞き覚えがあったと申すのじゃな?」「いえ、左様ではございませぬ。」「ではなぜ数馬と悟ったのじゃ?」 治修はじっと三右衛門を眺めた。三右衛門は何とも答えずにいる。治修はもう一度促すように、同じ言葉を繰り返・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・ と、聞き覚えのある声で言うのです。と思うと、どういう訳か、窓の外に降る雨脚までが、急にまたあの大森の竹藪にしぶくような、寂しいざんざ降りの音を立て始めました。 ふと気がついてあたりを見廻すと、私はまだうす暗い石油ランプの光を浴びな・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・ 奴は聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足踏して、「わい!」 日向へのッそりと来た、茶の斑犬が、びくりと退って、ぱっと砂、いや、その遁げ状の慌しさ。 四・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・きな蝶が、いくつも、いくつも雪洞の火を啣えて踊る、ちらちら紅い袴が、と吃驚すると、お囃子が雛壇で、目だの、鼓の手、笛の口が動くと思うと、ああ、遠い高い処、空の座敷で、イヤアと冴えて、太鼓の掛声、それが聞覚えた、京千代ちい姐。 ……ものの・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・父は冷えたわが子を素肌に押し当て、聞き覚えのおぼつかなき人工呼吸を必死と試みた。少しもしるしはない。見込みのあるものやら無いものやら、ただわくわくするのみである。こういううち、医者はどうして来ないかと叫ぶ。あおむけに寝かして心臓音を聞いてみ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ もしやどこかで、聞き覚えのある鳥の声はしないかと、耳を傾けましたけれども、あたりは、しんとして、なんの鳥のなく声もしなかったのであります。「どうか、鳥! 鳥! このかごの中へ帰っておくれ。おまえが帰ってくれないと、わたしは家へ帰ら・・・ 小川未明 「めくら星」
・・・途端に、此処だアと、聞覚えのあるSの声がした。嬉しそうな声だと、私もまた嬉しくきいて、夢中で声の方へ駆け寄った。雨が眼にはいって、眼がかすんでいたが、それでも日焼けしたSの顔ははっきりと見えた。Sは銃につけ剣して、いかめしく身構えて、つまり・・・ 織田作之助 「面会」
・・・問いの主はわれ聞き覚えある声とは知れど思いいでず。檣の方に身を突きいだして、御問いに答えまいらすはやすし、こなたに進みてまず杯を受けたまえといえば、二郎は、来たれ来たれと手招きせり。 檣の陰より現われしは一個の大男なり。 見忘れたも・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ ふと、嗄れた、太い、力のある声がした。聞き覚えのある声だった。それは、助役の傍に来て腰掛けている小川という村会議員が云ったのだ。「はあ。」と、源作は、小川に気がつくと答えた。小川は、自分が村で押しが利く地位にいるのを利用して、貧乏・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ ふと煤煙にすゝけた格子窓のさきから、聞覚えのある声がした。「おや、君等もやられたんか!」窓際にいた留吉は、障子の破れからのぞいて、びっくりして叫んだ。 そこには、他の醤油屋で働いていた同村の連中が、やはり信玄袋をかついで六七人・・・ 黒島伝治 「豚群」
出典:青空文庫