・・・主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎はこう言われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗がとれるのではあったが米など・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・ところが水をのむとその人は俄かにピタッと落ち着きました。それからごくしずかに何か云いそうに口をしましたがその語はなかなか出て来ませんでした。みんなはしんとなりました。その人は突然爆発するように叫びました。二三度どもりました。「な、な、な・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ デストゥパーゴはやっと落ち着きました。「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」 デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・それは、結婚という言葉が、それぞれの実質の高さ低さにかかわらず、何か人生的な落着きという感じを誘い出す点である。誰々さんが結婚するそうよ。まあ、そうお、「誰と?」という好奇心の起る前に、ききての胸にぼんやりと映るのは、それであのひとも落着く・・・ 宮本百合子 「これから結婚する人の心持」
・・・と順々に発表してきましたが、此の秋『改造』へ載せるので、それも一落着きになるつもりです。これはまるで、五年間の家庭生活に、はたきを掛けたり、拭いたり、お掃除をしているようなもので、これが済んだら、気持の上にも一段落ついてきっと何か新らしいと・・・ 宮本百合子 「十年の思い出」
・・・等と話しながら、温室の前に出ると黄ばんだ芝生の何とも云えず落着きのある色と確かな常磐木の緑、気持の好い縞目を作って其の影を落して居る裸の木の枝々の連り等が、かなり長い間此那所へ来ないで居た私の目に喫驚する位嬉しく写りました。 私・・・ 宮本百合子 「小さい子供」
・・・よって鎮められ、しめされて、底に非常な熱は保留されているが、触れるものを焼きつける危険な焔は押えられた今、まったく思いがけないもの――静かに落着いて、悲しげな不思議な微笑を浮べながら、 まあ、まあ落着きなさい。え、落着きなさい。と囁・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・けれども、彼女の分別は、やはりしずかで、もち前の落着きを失うことがない。「しかし、私からみますと、ひとの考えも皆わるくはないと思いますの。」「もしも冷静に考えて、心静かにこの刺戟を故国へもち帰り、我々を鼓舞して仕事をし、国際上の接触において・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上らず、備後畳の上に涙のこぼれるのも知らなかった。 長十郎はまだ弱輩で何一つきわ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・様子は変っていても、こんな静かな、同じことを繰り返すような為事をするには差支えなく、また為事がかえって一向きになった心を散らし、落ち着きを与えるらしく見えた。姉と前のように話をすることの出来ぬ厨子王は、紡いでいる姉に、小萩がいて物を言ってく・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫