・・・い、野に山に、標石、奥津城のある処、昔を今に思い出したような無縁墓、古塚までも、かすかなしめっぽい苔の花が、ちらちらと切燈籠に咲いて、地の下の、仄白い寂しい亡霊の道が、草がくれ木の葉がくれに、暗夜には著く、月には幽けく、冥々として顕われる。・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 小沢は両親も身寄りもない孤独な男だったが、それでも応召前は天下茶屋のアパートに住んでたのだから、今夜、大阪駅に著くと、背中の荷物は濡れないように駅の一時預けにして、まず天下茶屋のアパートへ行ってみた。 しかし、跡形もなかった。焼跡・・・ 織田作之助 「夜光虫」
大晦日に雪が降った。朝から降り出して、大阪から船の著く頃にはしとしと牡丹雪だった。夜になってもやまなかった。 毎年多くて二度、それも寒にはいってから降るのが普通なのだ。いったいが温い土地である。こんなことは珍しいと、温・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・すると親類の一人から電話がかかって、辰之助が出てゆくと、今避難者が四百ばかり著くから、その中に道太の家族がいるかもしれないというのであった。道太はおぼつかないことだと思いながら、何だか本当に来るような気がして、あわててお湯を飛びだした。誰々・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・これに反して四季の歌少く、雑の歌の著く多きを『万葉集』及び『曙覧集』とす。この二集の他に秀でたる所以なり。けだし四季の歌は多く題詠にして雑の歌は多く実際より出づ。『古今集』以後の歌集に四季の歌多きは題詠の行われたるがためにして世下るに従い恋・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
○明治廿八年五月大連湾より帰りの船の中で、何だか労れたようであったから下等室で寝て居たらば、鱶が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと・・・ 正岡子規 「病」
出典:青空文庫